封統は一人、新野に程近い小さな町を訪れていた。
 この辺りの町にも、立て札はある。近隣の町村にも関定は向かったようだ。
 新野城に逃げた後のことは封統は知らない。だが、猫族のあの間抜けな性格を考えれば、どうせ足手纏い覚悟で共に連れて行こうとするだろう。
 馬鹿馬鹿しい。下らない馴れ合いだ。空虚な偽善だ。忌々しいったら無い。

 堂々と町中を歩いてた封統は、ふと足音を聞きつけて物影に隠れた。

 怒濤のような沢山の足音。
 それに重なる、馬蹄の音、鉄の擦れる音。
 確か、第一陣は夏侯惇、副将に賈栩という軍師だったか。

 各陣十万の兵力を携えてのお出ましである。

 封統は物々しい行軍を前方に認め、札を銜えて耳を澄ました。


「これはどうしたことだ。人っこひとりいないとはな」

「夏侯惇様、賈栩様、こちらをご覧下さい!」

「これは……立て札?」

「何々? 近々新野に曹操軍の進撃あり。助かりたくば、皆新野城まで来られたし……これは民に向けてのものなのかな?」

「十三支が立てたというのか?」

「さあ……だが、どちらにしろこの様子だと、すでに十三支には逃げられた後かもしれんな」


 しかし、民を連れて逃げるとはね。
 賈栩の抑揚に欠けた声は、何の感情も滲ませない。

 壁から顔を出して様子を窺う。封統が隠れる家屋に近い立て札に注目する賈栩は、思案深げに顎を撫でている。夏侯惇は立て札を向いているものの、何処か心ここに在らずと言った様子だった。大方、幽谷のことを考えているのだろう。十三支がいないのなら、当然狐狸一族もいない。夏侯惇にしてみれば十三支よりも幽谷が目的で第一陣にいるのだから、とんだ骨折り損だ。

 躍起になって一人で追いかけようとしないでくれよ。
 心の中で、軽く言葉をかける。


「さぁ、この判断がどう出るかな。如何に神の一族の助力があると言えど、難民を連れて逃げきれるほど曹操軍は甘くないよ、天才軍師殿。……これなら案外、すぐに見つかるかもしれないね、夏侯惇?」


 挑発するような言葉に、夏侯惇は無反応だ。

 賈栩は肩をすくめふと――――、


――――封統を捉えた。


 何!?
 封統は瞠目する。
 物陰に身を潜ませて銜えていた札を剥がし、確認する。目眩ましの札だ。間違い無い。僕が術をかけ損なった? いいや、それこそ有り得ない。

 だったら……気の所為? ――――いや、今賈栩は確実に封統を視界に捉えた。捉えられたということは姿が見えていたということ。術が効かなかったということ。
 賈栩だけか? いや、分からない。
 何にせよ、これは予定外の事態である。
 考えるよりも、この町から離脱するべきであろう。

 新しい目眩ましの札を銜え、封蘭は屋根に飛び乗った。


――――が。


「あれは十三支か!?」

「ちょっ、夏侯惇まで見えてるのかよ……!」


 何がどうなってる!
 封統は舌を打ち、駆け出した。
 無数の矢が放たれ封統を狙う。

 見えている。
 僕の姿が、徒人(ただびと)の兵士にまで!

 新しい札に変えたばかりだぞ!?
 尋常ではない。
 予想外なんてものじゃない。

 まさかもう曹操軍(にんげん)の中にあの女が潜んで――――。


 いや、違う。


「――――この、気配……」


 封統はだんと屋根を踏み締め逆方向に進路を変えた。屋根を飛び降り懐から札を取り出し、軍に向けて放つ。

 刹那、旋風(つむじかぜ)。
 立っていられない程に強く吹き荒んだ風に体勢を崩す兵士達の中に飛び降り、夏侯惇と賈栩の間を駆け抜けた。

 跳躍し、一気に距離を離す。


「っ、待て!!」

「我ら狐狸一族の邪魔をするな」


 そう言い置いて、もう一度同じ札を投げつける。
 彼らが風に翻弄されているうちに、封統は家屋の影に隠れつつ、町を出た。

 新野城まで一気に駆け抜け、軽々と城壁に飛び移る。

 だが、見張りの兵士も十三支も、誰一人として封統に気付く素振りは無い。ここでは札の効果が機能しているのだ。
 それを視認し、封統は確信する。

 間違い無い。
 これはあの女ではないが――――あの女がいるよりももっと面倒なことになってる。
 頭巾の上から頭をがしがしと掻き、大股に見張り場から城下に飛び降りた。大股に城へ進み、正直会いたくない忌々しい天仙の姿を捜した。

 時折擦れ違う十三支に苛々する。まさか、またあんな奴らと行動を共にしなければならなくなるだなんて。長の命令とはいえ、一瞬たりとも同じ場所の空気を吸いたくないと言うのに。

 忌々しい空間を長い時間歩き、封統は廊下にてようやっと目当ての人物の姿を見つける。

 彼の背後に近付き、札を外して低い声を発した。


「おい」

「……この声は、封蘭ですか?」

「気配で分かったくせにいちいち訊くな。あと封統だっつの」

「手厳しい子だね本当に」

「そんなことより、追加で残念な報せがある。夏侯惇に《狐玉(こだま)》の気配があった」


 瞬間、恒浪牙は封統を振り返り、顔を強ばらせる。有り得ない、口がそう動いた。


「長に見せてもらった物の気配と全く同じだったから、間違い無い。長が大昔回収し損ねた《欠片》が、夏侯惇の術を解きかけているんだ。あれじゃあ、夏侯惇に引きずられる形で、幽谷も思い出しかねない。あれはそう言う物なんだろ?」

「……やはり、金眼の邪気に当てられてのものではなかったのですね」


 それだったら良かったのに。
 厄介なことになったと、恒浪牙は眉間に皺を寄せて柱に凭れ掛かった。重々しい溜息が漏れる。


「皆さんを見送ってから、伯母上のところに戻ろうと思っていましたから、そのことも彼女に伝えます。封統は、申し訳ありませんが幽谷に細心の注意をお願いします」

「ああ」


 渋面を作って早足に歩き出す恒浪牙を見、封統は目を細めた。
 やっぱり、《狐玉》のことになると恒浪牙も取り乱すのか。

 封統は身を翻し、みたび、札を銜えた。



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