狐狸一族に恩義を感じて涙する老人は、彼らには異様な光景に見えたことだろう。

 新野の民からは不審の目で見られ、距離を取られてしまった老人の家族は、恨めしげに幽谷を見ていた。とは言え、そんな視線が来るのはあの孫の両親からだけなのだが。

 老人とは違い、狐狸一族などほぼ知らないに等しい民の目から見れば、幽谷は猫族と同種の化け物にしか見えない。
 不審はより一層増すばかりだった。

 更に不穏な空気になったと、幽谷は困惑する。これでは説得はますます難しくなったのではなかろうか。
 自分はこの場にいるべきではなかったのかもしれない。あの老人の目に留まる場所がここでなければ空気が悪くなることは無かったように思う。
 これで説得が失敗してしまったら、どうすれば……。
 蔑視が強くなった民から逃げるように周泰を見やれば、彼は変わらぬ無表情で民を見渡していた。

 と、隣で諸葛亮が息を吐く。
 彼は劉備の隣に立ち、静かに民を見回す。


「異なる人種に庇護されれることが然様(さよう)に気疎(けうと)いか。……ならば言おう、お前たちの生まれた地を攻め滅ぼさんとしている曹操は人間ではないか。そして、お前たちを見捨てた領主もまた人間だ」


 民が一様に青ざめる。


「領主様がわたしたちを見捨てた? そんな馬鹿な!」

「信じる信じないはお前たちの勝手だ。だが、曹操軍が今にも攻め入るというこの時、すでに安全なところへ逃げたお前たちの領主と、今まだお前たちの前に残り逃げるべきだと説得する猫族と昔時の義理を果たそうと猫族を守護する狐狸一族、どちらが信用に足るべき者だろうな」


 狐狸に一族に恩義があると言う老人が、劉備に向けて静かに拱手する。それは恭順の意を表しており、孫もまた狼狽(うろた)える母親を無視して老人を真似ている。
 その側に誰かが寄ったのに、幽谷は薄く口を開いた。
 遠目だが、外套に身を包んだその人物は、身長は自分と同じ程。老人の傍らに屈み込んで何かを話しかけている。

 老人は何を言われたのか、嬉しそうに微笑み、何かを語り出した。

 それをじっと眺めていると、別の方面から聞き慣れた声が聞こえてくる。


「オレはコイツらについていくぞ! 曹操は恐ろしい人でなしって噂だ! 捕まったらひどい目にあうに決まってる! アンタたちを信じるから、オレを先に逃がしてくれ!!」


 ……十中八九、周瑜だ。
 周泰を見やると、彼は目で幽谷を諫めた。何も反応を示すな、彼の常に凪いだ目はそう言っている。
 それに瞬きで了承の意を伝え民に視線をやった。

 『曹操は人でなし』――――彼らは周瑜の言葉に危機感がより強く煽られたのだろう。青ざめどよめきが大きくなった。
 やがて、恐怖の重圧に負けてあちこちから声が上がる。


「オ、オレもだ! オレも逃げる! 連れてってくれ!」

「ずるい! わ、わたしも! 曹操軍に捕まるなんてゴメンよ!」


 周囲の空気に触発されて、一斉に劉備へと押し寄せる民を、丁度部屋に入ってきた趙雲が兵士に扉を開け放しにさせて民へ声を張り上げた。


「皆、落ち着くんだ! 城の裏手に船がとまっている。順番に乗せていくから、東門に集まれ!」


 話が落ち着くのを部屋の外で待っていたのかもしれない。手際よく民を誘導しつつ、劉備達に頷きかける。誘導される民の最後尾に、外套の青年二人と老人達が続いていた。
 ……何となく、周瑜に借りを作ったような気がして、胸がもやもやする。


「なんか、わかんねぇけど、みんな来てくれるみたいだな」

「うん、よかった」


 安堵に笑みを浮かべて会話する関定と関羽を一瞥し、幽谷はほうと吐息を漏らす。
 すると、周泰が大股に歩み寄り無言で幽谷の頭を撫でてくる。


「あの……先程の老人は、」

「長兄の話に類似する」


 だから本当のことだろう。
 言外にそう言われて、幽谷は首を傾けた。


「俺は趙雲と同じ役目に就く。お前はここで指示に従え」

「分かりました」


 周泰は劉備と諸葛亮に拱手し、足早に民の後を追いかけた。

 その後ろ姿を興味深そうに見つめ、諸葛亮は幽谷を呼ぶ。


「狐狸一族は一族自体が兄弟という括りだそうだな」

「はい」

「お前と長、そしてもう一人を除けば全て男だと周泰から聞いたが、子孫を残す場合は余所から娶(めと)るのか」

「いえ。婚姻は結んではならないと、遙か昔に長が決められたと聞いています。私や兄周泰、それから姉だけはその対象にはなっていないそうですが……。これまで、周泰以外の兄達に誰かが嫁いできたと言う話は全く聞きません」


「なに?」諸葛亮は怪訝そうに目を丸くした。


「それではどのように続いてきた」

「続く……いえ、狐狸一族は長生きですから……」

「それにしても限度があるだろう」

「……は、はあ……しかし、私はそのようにしか兄弟からは聞いておりません」


 謝罪すると、諸葛亮はまた思案に没入した。
 幽谷は困って諸葛亮を何度か呼ぶ。狐狸一族に興味を持ってもらえるのは嬉しいことだけれど、途中で考え込まれると所在に困ってしまう。それに指示も受けていない。
 諸葛亮を前に彼の言葉を待っていると、ふと劉備に呼ばれた。

 ほっとして駆け寄ると、


「諸葛亮、狐狸一族のことがとても気になるみたいだね」


 苦笑で迎えてくれた。


「伝説の神の一族だからかな」

「そう、らしいですね。意外に堂々と人の中を歩いていたりするのですが……」

「それ、諸葛亮とあのおじいさんには言わない方が良いかも」


 微笑む。
 幽谷は理由を問おうとしたが、その前に張飛に呼ばれて今度はそちらへ向かう。張飛の隣には蘇双がいた。衣服に刺さった藁を面倒そうに一本一本抜いている。


「集まった人達、結構多いみてーだからさ、ちょっと趙雲達を手伝ってこようぜ。まだ説得が済んでない奴らも、城内にちらほらいるらしいし、それまではオレ達やることねえだろうしさ」

「……しかし、諸葛亮殿の指示が」

「マジ? じゃあ――――諸葛亮ー! ちっと幽谷と蘇双と趙雲達の手伝いしてくるわ。すぐも戻ってくっから」

「分かった。簡単な確認作業もある、あまり長居はしてくれるなよ」


 幽谷は少しだけ驚いた。もう考え事していないようだ。
 指示はその時に出すと言い、劉備と会話を始めた彼に拱手し、「お手伝いします」と張飛を振り返った。


「おう」


 張飛は急ごうと部屋を小走りに飛び出した。
 それに、蘇双と共に従う。



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