数日後。
 彼らは尋常でない数を以て姿を現した。


「……戻るぞ」


 野営するらしく、丁度真正面に陣を構えた曹操軍を見ながら告げた周泰に頷きかけ、幽谷は身を翻した。
 後に合流するという封統はこの場に残りる。
 姉に拱手(きょうしゅ)し二人は新野城へと急行した。

 木から木へ移動し、麓へ降りる。そこから並んで全速力で駆け休憩も挟まずに向かった。

 新野城に着くと、城門は堅く閉ざされている。曹操軍の襲撃に向けてのものだろう。
 その手前で立ち止まること無く、勢いを利用して跳躍。城壁の上へ、ぎりぎり縁に手をかけよじ登った。驚く兵士達に拱手した幽谷は、下方に控える周泰を見下ろして頷く。

 兵士を振り返り、


「狐狸一族の者です。開門願います。そして、博望坡に五十万の曹操軍が現れたと、諸葛亮殿に早急にお報せ下さい」


 そう、高らかに告げた。



‡‡‡




 城門をくぐってきた周泰と共に諸葛亮のもとに戻れば、彼はまず二人をねぎらった。丁度、城内に集まった新野の民に劉備が話をするところであったらしい。関羽や劉備にもお疲れ様と声をかけられた。

 新野城から樊城に発つ前に休めと諸葛亮には言われたが、落ち着かないので劉備達に同行することとした。それに、万が一話の間に民が劉備に危害を向けぬとも限らない。念の為ということで、揃って劉備に従った。

 謁見の間に集う民の顔は、いずれも暗く、不安に瞳を揺らしていた。
 そんな彼らの前に立ち、劉備は声を張り上げる。


「みなさん、落ち着いて下さい」


 劉備の姿を見た民は、更に更に青ざめる。
 十三支十三支と騒ぎ立て、ざわめき出した。
 それでも、劉備は凛とした佇まいを保ち、言葉を続ける。


「僕は猫族の長、劉備です。みなさん、どうか僕の話を聞いて下さい。もうすぐここに曹操軍が攻めてきます。曹操はわずかな時間で河北を制しました。その勢いで新野に攻め入れば、ここはひとたまりもありません」


 自分達と一緒に逃げようと、劉備はここからの言葉を精一杯に放つ。

 されど、人間の反応は冷たいものだ。
 十三支の言葉と一蹴されてしまう。
 関羽が隣の周泰の外套をぎゅうっと握り締めている。ほぼ無意識のことで、本人も気付いていない。劉備を食い入るように見つめている。彼女の心情を察してか、周泰もそのままにさせていた。

 十三支に対する野次は容赦が無かった。

 が、劉備は、諦めない。


「……僕は、僕たち猫族の始祖劉光がここ荊州の出だという話を聞きました。僕たちとみなさんは、元は同じだったんです。だから僕たちは、全く関係ない訳ではありません。かつて同じだった者同士、助け合いたいんです」

「な、なにを言ってるんだ! この十三支め! オレたちがお前達のような下賤な一族と同じなわけがないだろう!!」

「ふざけるな! オレたち人間をなめてんのか!?」


 民の一人が劉備に掴みかかろうとする。
 それを、幽谷が間に入って止めた。

 幽谷もまた、人間にとっては異形だ。
 民は彼女の耳に気付いて数歩後退した。


「な……何だこいつ……っ?」

「……何あれ、あれも十三支なの?」


 幽谷は劉備を振り返り、どうするか視線で問う。
 劉備は微笑んで首を左右に振り、彼女の身体をそっと優しく横に退けた。
 それが劉備の意志であると、幽谷はそれに従い元いた場所に戻ろうと歩き出す。

 それを、嗄(しわが)れた声が呼び止めた。


「お、お待ち下さい……!」


 足を止めて、振り返る。
 廊下から歩いてきている老人だ。杖を突き、孫と思しき少年に支えられてようやっとこの間に辿り着いたということなのだろう。
 彼は幽谷を見て、涙をこぼし微笑んでいた。

 ……その老人に、見覚えは無い。

 諸葛亮が怪訝そうに隣にまで歩いてきた。


「ご老人。彼女をご存じなのか」

「……いいえ。ですが、その耳、狐狸一族の方であるとお見受け致します」


 諸葛亮が問いかけると、老人は幽谷の方へと歩いてこようとする。やや距離があった。
 劉備が行ってあげてと小声で言う。微笑んで、大丈夫だよ、と頷いてみせる。

 幽谷は困惑しつつも、老人の前に歩み寄った。諸葛亮もついてくるのは、彼女の人付き合いの不得手さを理解しているが故のことだった。
 老人の前に片膝をついて見上げると、感極まった様子の老人は杖を置いた。自らも座り込み、両手を合わせて拝むように頭を下げた。


「……あの、」

「わたくしは、幼い頃狐狸一族の方に命を救われました。そして今も、その時のことは鮮明に記憶しております。我が人生、再び狐狸一族の方にお会い出来ようとは思わなんだ……」


 合わせた両手を離して幽谷の片手を包み込む。乾燥し、痩せた指は、しかししっかりと握る。
 何をすれば良いか分からず、幽谷は思案しつつ老人を眺める諸葛亮を見上げた。老人の言葉が続いた為、すぐに視線を戻さざるを得なかったが。


「狐狸一族の方がいらっしゃるのであれば、わたくしはついて参りましょう」

「え、と……」


 この場合、私はどうすれば良いのだろう。
 取り敢えず、もう片方の手で老人の手を撫でてやる。子供の様子を見れば、彼はきらきらしたような目で幽谷の耳を見つめていた。


「……何か?」


 子供ははっとして首をぶんぶんと左右に振った。老人の服を引っ張って、間の奥でこちらを怯えた眼差しで見つめる女性を指差した。


「じいちゃん、母ちゃんのとこに行こうよ。ふーり様の迷惑になっちゃうよ」

「……おお、おお。そうじゃな」


 老人は幽谷に平伏し杖を持って立ち上がった。それを幽谷も支えると、そんな些細な気遣いでも感じ入ったように涙を流した。ただ命の恩人と同じ一族の者であるだけで、そこまで感動出来るものなのだろうか。人の感情は、分からない。

 老人を支えて歩く子供が小さく手を振るのに会釈すると、諸葛亮に戻るように肩を引かれる。
 困惑の収まらないまま元の位置に戻った幽谷に、劉備が少しだけ嬉しそうに笑いかけた。



.

- 68 -


[*前] | [次#]

ページ:68/220

しおり