夜。
 月明かりに照らされる平原に動きはない。稀に、封統が放った獣が彷徨(ほうこう)するだけだ。
 それを見下ろしながら、封統は腕組みして思案に耽る。けれども周囲への注意だけは決して怠らない。片方だけとなった耳をぴくぴくと震わせ、些末な音すらも拾わんとする。

 背後には幽谷。周泰は手持ち無沙汰であるからと付近を見回らせている。


「未だ遠吠えも無い。……もう暫くは曹操軍が来る気配は無いか」

「数日かかるやもしれません」

「ああ……この付近には木の実が成ってる。腹が減ればそれを食べてろ」

「はい」


 頷くも、多分彼女は自らこの場を離れてまで食事に入ろうとはしないだろう。その無駄に強い責任感は、昔から引き継いでいるようだ。
 封統は幽谷を振り返り、隻眼を細めた。

 幽谷の後ろに、人影を見たからだ。幽谷がじっとこちらを見て構わなくて良いと訴えてくるが、構わずに封統は声をかけた。


「城にいないと思ったら……ここで何やってんの、お前ら」

「いや、幽谷達がこっちに来てるって知って、激励にな」


 木が落とす影から現れたのは周瑜。その後ろには、外套の頭の半分まですっぽりをかぶった青年が続く。
 幽谷は一瞬だけ嫌そうな顔をし、しかしすぐに無表情を取り繕って後ろの青年にだけ拱手し素早く封統の後ろへ逃れた。

 が、周瑜は彼女に大股に近付くと、顎を掴んで無理矢理に上向かせた。包帯に巻かれた片目を親指で労(いたわ)るようにそっと撫で、呆れたように吐息をこぼす。


「……無茶をするなって言っただろ」

「無茶をしたつもりはありません」


 即答する。
 が、周瑜は柳眉を顰めた。逃げようと身を引いた幽谷の背中に手をやって引き寄せる。


「下手をすれば見えなくなる」

「水に浸かれば元に戻ります。問題はありません」

「だから……」

「……幽谷」


 嘆息した周瑜の後ろから、青年が口を挟む。声はいつもより幾らか低かった。


「お前に何かあれば狐狸一族だけでなく尚香も悲しむ。そういったことは、決して口にするな」


 叱りつけるように言われ、幽谷は当惑した。


「……申し訳、ありません」


 取り敢えず、謝罪はしておいた。
 すると、頭上から嘆息。見上げれば、苦笑混じりに片目を眇めていた。


「アンタは本当に周泰に似てるよ……血の繋がりも無いって言うのにな」

「……そうですか」

「いや、そこで喜ばれるとちょっと腹立つんだけど」

「周瑜。そろそろ幽谷から離れないと、この辺が焦土になるよ」


 平原に視線を戻した封統が間延びした声でそう言えば、彼は即座に幽谷を放して身を翻した。されど遅く、半瞬後には周瑜の悲鳴が上がる。肩越しに振り返るといつの間にか戻ってきていた周泰が猫の耳を生やした悪漢に切りかかっていた。
 やめろだの落ち着けだのと叫んでいるが、封統も幽谷も、そして青年すらも止めはしなかった。幽谷に関しては、青年に怒られたことに耳を僅かに下げていて、周瑜達には意識も向けていない。

 封統は幽谷を呼び、手招きした。


「これから先休む暇は無い。数日かかる今のうちに寝て、体力を温存しときな」


 幼子に言い聞かせるように言うが、やはり幽谷は承伏しかねるような顔で、反論しようとする。
 それを言わせまいと手を伸ばし、くい、と指を曲げる。

 直後――――彼女はその場に崩れ落ちた。健やかな寝息を立てる彼女の身体を抱き留め周泰を呼ぶ
 周瑜への容赦無い攻めを中断した彼は、封統が幽谷の身体を揺らして示せば即座に意を汲んだ。幽谷を抱き上げて近くの木に寄りかかって座る。胡座の上に座らせる形を取ったのは、周瑜への警戒故である。

 封統はそれを一瞥し、平原へ視線を戻した。そうしながら、周瑜を呼んだ。


「どうせお前らも諸葛亮達と一緒に行くんだろう。なら、忠告しておく。幽谷と夏侯惇を接触させるな。下手をすれば、幽谷は今の生活を捨て夏侯惇のもとへ靡(なび)いて行くぞ」

「……どういうことだ」


 いち早く問うたのは青年だ。眉間に皺を深く刻み、封統へと歩み寄る。
 封統は簡潔に答えた。


「夏侯惇と幽谷が、そういう関係になりかけていると言うことさ。今はまだ記憶が無いから、自分には関係のない筈の赤の他人だと思い込んでる」

「元の幽谷は曹操軍と繋がりがあるのか?」


 「さあ、どうだろう」封統は嘯(うそぶ)いた。


「詳しいことは僕にも分からない。夏侯惇だけだから、過去に個人的な深い接触があったのかも。けどそう仮定しても、夏侯惇の幽谷に対する執着は一方的で異様なくらいに凄まじい。そこに何らかの干渉があると思うくらいだ。あれじゃあ思い出さなくっても、隙を突いて無理矢理連れ帰ってしまうかもしれないね」


 そこで周瑜が歩み寄る。打って変わってふざけた色は無く、急に真剣みを帯びた顔は険しい。
 彼は幽谷を見やり、


「おいおい……聞いてないぞ、それ」

「言っていないから知らなくて当たり前だ。幽谷を敵に回せば、狐狸一族は傍観者となって呉に手を貸さなくなる。周泰だけじゃなく、お前も気を付けてろよ。夏侯惇との接触は絶対に回避するんだ。……って、十分しそうな顔してるけど」

「当然だろ」

「……当然って。お前な……」


 封統は呆れた風情で両手を腰に当てて周瑜に向き直った。


「お前、幽谷のことからかい甲斐のある狐狸一族の女としか見ていないだろう。伴侶として望んでる訳でもあるまいのに……」

「心外だな、オレはそんな風に見てるつもりはないぜ?」

「……あっそ」


 周瑜はあくまで幽谷を本気で落とそうとはしていない。ただ物珍しさにからかっているだけだ。
 彼が本当に欲しいのは……同じ猫族の女。
 幽谷では彼の願いは叶えられない。それが分かっているから幽谷に本気になることは無い。
 真実周瑜に夜這いをかけられ半殺しにしかけた封統は、それが分かっていた。血の呪詛に縛られた彼の様を、哀れだと思う。

 幽谷自身も無意識のうちにそれを察しているからああも毛嫌いしているのだ。


「まあ、今のところ幽谷がお前に惚れることは無さそうだし、別に良いけど」


 封統は吐息をこぼし、周泰を見やった。
 彼は目を伏せている。
 その心中は、封統にも分からない。



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