恒浪牙と共に現れた趙雲は、出立前に幽谷の様子を確かめたかっただけらしい。無理をしないようにとの釘を指して、彼は足早に発った。

 その後には、関羽と劉備もだ。
 幽谷の目の傷や精神を気遣いつつ、また後で合流しようと声をかけた。この時も、彼らは幽谷の両目のことに言及しなかった。もしかすると、もう諸葛亮が言っているのかもしれない。
 二人に繰り返し無理をするなと言われ、趙雲にも言われたとこっそり心の中で返した幽谷は曖昧な返事を返しつつ二人を送り出した。

 それ以降は誰も来ないだろうと思って岩の上で一人休んでいた幽谷は、ふと少し離れた場所に見える山から誰かの声が聞こえたような気がして腰を上げた。
 囁くが如き微かなそれは風に乗って幽谷の耳を刺激する。
 その声が、新しい記憶を掠めたものだったから、誘われるように山の方へと足を踏み出した。暫し耳を傾け、やはりその山から風に乗って届いているのだと確信を持つ。

 十分休めた故、彼女の足取りはしっかりとしていた。これなら、山道に入らず、木々の上を伝って到達出来るだろう。
 山に入ってすぐ、彼女は手頃な大木の枝へと軽々と飛び乗った。そこからまた別の木の枝へ飛び移るを繰り返し、山を登っていく。
 途中烏や鷹が寄ってきたが、声をかける程度で構うことは無い。聞こえる声が、幽谷を急かしているように聞こえる為だ。

 本来ここにいる筈のない人物がいるとなれば、それなりの理由があろう。
 少しでも早く到達せんと、幽谷は急いだ。

 声が聞こえるのは、山の中腹。かそけし声でもそれは分かった。
 立ち止まること無く声のもとへ向かうと、急に視界が開けた。
 やや急な斜面になっているその手前は少し広めの広場になっており、そこには黒の化身が兄と並んでいた。

 樹上から飛び降り彼らに駆け寄れば、黒の化身――――全身を黒の装束に包んだ小柄な少女が幽谷に向き直る。関羽よりも低い身長ではあるが、隻眼となった左目は理知に富み如何なる相手にも隙を見せない。その佇まいは見た目以上の年齢を感じさせる。
 彼女は右目を眼帯で覆い、頭に巻いた頭巾から右だけの猫の耳を覗かせていた。左の耳は無い。頭巾に潰されている訳ではなく、真っ黒な頭巾は丸い頭部の線にぴったりと沿っている。
 片方だけの耳をぴくりと震わせて腕組みし幽谷を見上げた彼女は、無言で斜面の方を見やった。

 同じように見、あっと声を漏らす。
 この場所……方角を考えるとまさに曹操軍が通るだろうそれだ。これだけ高度もあり、隠れるに十分な茂みもあれば、危なげ無く曹操軍をすぐに捕捉出来る。見張りに適した場所だ。

 少女が覆面の下で告げる。


「……ここからなら、遠くからでも見えるだろ」

「お力添え、感謝します。姉上」

「たまたま通ったのを覚えていただけだ」


 弟の謝辞もけんもほろろに突っぱね、無愛想な黒目を細めた彼女は覆面を外した。

 幽谷と周泰の姉――――封統。
 彼女は周泰と同様狐狸一族でありながら狐狸一族ではなかった。

 彼女は純粋な猫族だった。
 と言っても左目は黒。純血の証である金ではない。
 それも、敢えてのことだった。

 眼帯に覆い隠された右目。その色を幽谷も一度だけ見た。彼女が頑なに隠す右目こそが、美しい透き通った金色なのだ。
 金目と黒目――――色の異なる双眸は、四霊の証。

 封統は、純血の猫族であり、幽谷や周泰と同じく四霊であった。

 何故敢えて金目の方を隠すのか確かなことは分からないが、恐らくは彼女が幽州の猫族を恨んでいることと関係があるのだろう。
 だからか、母も封統は周泰と幽谷に同行させることは無かった。

 そんな彼女が、どうしてこんなとこにいるのだろうか。
 不思議そうに見つめてくる妹に、封統は面倒そうに頭を頭巾の上から掻いた。


「長の指示だ。もう少し様子を見て、僕もお前らに合流する。後は張遼と顔見知りだから、そいつにお前のことを話してきた」

「私の……?」

「ああ、どうせお前、張遼が自分を知ってるかもしれないって変な期待持ってるだろう。だが残念ながら、あいつの知る幽谷って女にお前は確かに似ているが、あいつが呼んだ幽谷はお前じゃない。同じ名前の、全くの別人だよ。四霊全員を把握している訳じゃあないが、僕達が一人の天仙に作られた四霊である以上、容姿の使い回しは有り得ないことじゃない。あいつも僕と同じくらいの時は生きているだろうし、元々四霊は呂布を殺す為に作られたんだ。こんなことが無いとは言えない」

「……そうだったのですか」


 幽谷は全身から力が抜けていくのが分かった。落胆しているのだと、やや遅れて自覚した。

 封統は一番最初に生まれた四霊だ。それに、幽谷の姉でもある。疑う理由は無かった。

 では……あの人の言っていたことは私に向けられていた訳ではなかったのね。
 過去の自分を知っているかもしれぬと膨れ上がった期待は、見る見る萎んでいく。
 見るからに落ち込む妹に、封統は苦々しい顔で周泰を見上げた。周泰が少しだけ申し訳なさそうに拱手するのに、片手を挙げて幽谷の頭を撫でた。


「……僕も探してやるから、のんびりとしてろ」

「……はい」


 耳を伏せ、幽谷は小さく頷いた。



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