汗だくになって座り込んだ幽谷に手を差し伸べたのは、諸葛亮であった。
 話は終わったらしく、呆れた風情で幽谷と息を乱さぬ周泰を交互に見やる。逼迫(ひっぱく)した状況下で片方が体力限界になるまで鍛錬をやると如何なものか、視線だけでそう咎めてきた。

 幽谷は小さく謝罪した。諸葛亮の手を取り、立ち上がる。
 短時間で負担の掛かった足ががくっと折れたのを諸葛亮が支えてくれた。


「……すみません」

「満足に歩けなくなるまでやるな」

「…………すみません。集中しすぎて、つい」

「ついで済む程度か、これは」


 背中を支えられ、近くの岩に座らされる。これ見よがしに溜息をつかれて幽谷は肩を縮めた。

 与えられた役目を果たす為に夏侯惇への恐怖を忘れたくて、手合わせに躍起になりすぎたのだった。
 周泰もそれが分かっているからか、時折咎めるように幽谷を呼んでいたように記憶しているが、それも酷く曖昧だった。
 周泰はそんな幽谷の相手をしながらも加減をして疲労を軽減していたというのに。自分と来たらこの体たらくだ。
 自己嫌悪に陥っていると、諸葛亮が肩に手を置いた。


「幽谷。曹操軍に近付くことすら怖いなら、私と共に新野城へ行ってもらうが、どうする」

「……いえ。役目は必ず果たします。私のことはお気になさらず」


 劉備にも言ったことを諸葛亮にも告げると、諸葛亮は柳眉を潜めて目を細めた。一転して不機嫌な顔になる。

 何か気に障っただろうかと、幽谷は内心首を傾げた。だが、当然の言葉を返したまでで、別に不快にさせるようなことは、何も言っていないと思う、のだが……。
 己の言動を思い返してみるが、やはり分からない。


「すみません」


 睨まれたまま何をするべきか分からず、取り敢えず謝罪する。

 諸葛亮は眉間の皺を深めた。


「理由が分からないのに謝るな」

「……すみません」

「……幽谷」

「すみ……いえ、何でもありません」


 謝罪ばかりであることに気が付き言葉を中断して首を左右に振った。

 諸葛亮は幽谷の頭をはたき、周泰を見やる。


「周泰、万が一曹操軍へ接近する必要がある場合には幽谷を先に戻らせろ。こちらは幽谷からの知らせがあればすぐに発つ。お前は先んじて襄陽城へ迎え。良いな」


 周泰は頷き、了承を示す。諸葛亮に拱手し、場所を捜しに出ると足早に辞した。

 自分は暫く休んだ方が好いだろう。体力の限界まで鍛錬に没頭してしまったから、またふらついてしまうかもしれない。
 至らぬ己を叱咤しつつ、幽谷は動き出さない諸葛亮を見上げた。


「……」

「……」

「……あの、戻られないのですか」

「まだ少し時間はある。何処でどう過ごそうが私の勝手だ」


 それは……そうだけれども。
 だからって、どうして私のところにいるのかしら?
 まだ人との接し方が分からない幽谷の側にいるよりも、きちんと会話が出来る劉備達といた方が楽だと思うのだが。
 つい探るように諸葛亮を見つめてしまって、突っ慳貪に「鬱陶しい」と言われてしまった。

 会話らしい会話など無かった。特に話題も無いし、指示について訊くべきことも無い。加えて対人関係のいろはも分からないとなれば、自然と二人揃ってだんまりとなるのは必定だった。
 幽谷は空を仰ぎ、徒(いたずら)に雲の動きを追った。

 すると、不意に。


「お前達が四霊であることを明かすつもりは無いのか」


 視線を諸葛亮へ戻し、幽谷は隻眼で瞬きを繰り返した。


「今話せば、ご迷惑となりましょう。こちらでは、四凶という凶兆と扱われていると聞いております」

「ああ、そうだな」

「では、今私どものことを話せば猫族の方々や、新野の民まで無駄に心を乱してしまうだけです。であれば今はまだ、話さずともよろしいでしょう」


 幸い、関羽達も幽谷の色違いの目について何も訊いてこない。豫州(よしゅう)の隠れ里で幽谷と想定外の遭遇をしてしまった趙雲も、猫族と行動を共にするようになってから一度も触れてはこなかった。確かに、この両目を見ている筈なのに。
 幽谷は負傷故に眼帯の代わりに包帯で覆った片目を押さえた。
 傷は水に漬ければたちまちに癒えてしまう。けれども敢えて、傷はそのままに恒浪牙の治療を受けながらままに水に濡らした布を押し当てるなどして地道に治していた。両腕の火傷は襄陽に至る前にすでに跡形もなく癒えている。恒浪牙の薬を利用しているということ、そして狐狸一族であることが認識されているので、常人よりも治りがうんと早くても、痕が残らずとも不審がられることは無かった。

 四霊と知らせてしまえば、こういった面倒が無くて非常にやりやすくなる。方術も堂々と使えるし、幽谷は水、周泰は火に傷を包めばどんなに酷い傷もすぐに癒えてしまうのだから。


「後程、長や関羽殿に話さぬようお願いした方がよろしいでしょうか」

「すでに私が言っておいた。劉備様もあいつも、お前に気を遣って当分は隠すつもりでいたらしいがな」

「……ありがとうございます」


 頷き、諸葛亮は幽谷の顔を凝視する。すっと手を伸ばし、露わとなった赤い左目元を指でさすり、思案するように低く唸った。


「赤と青の目をした四霊、か」

「……それが、何か?」


 関羽達から聞いたのだろう。幽谷の目の色を呟く彼に、怪訝に眉根を寄せた。

 しかし、諸葛亮は思案に沈んだままだ。
 居たたまれなくなってどうするべきかと幽谷も思案し始めると、そこで折良く恒浪牙と趙雲が現れた。


「諸葛亮殿。少しよろしいでしょうか」

「……、分かりました」


 幽谷の顔から指を離し、恒浪牙の方へと近付く。

 趙雲は一瞬怪訝そうに諸葛亮を見たが、幽谷を見ると小走りに駆け寄ってきた。


「幽谷、気分は大丈夫か?」

「……はい。今は何とも」


 夏侯惇の話題になった時のことを言っているのだろうと、幽谷は首肯した。

 すると、趙雲は少しだけ心配そうに微笑んだ。
 その後ろで、諸葛亮が肩越しに振り返る。



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