押し寄せた曹操軍に大勝を納めたその翌朝。
 本来の姿を取り戻した彼は、猫族の前に姿を現す。決然たる姿勢に猫族は束の間気圧され、しかしすぐに、彼の前に一様に平伏した。

 忠誠を誓う彼らの前では、長の気風を漂わせている。気丈に振る舞っているとは、疎い幽谷にも分かった。

 関羽も、劉備を痛ましげに見つめている。劉備に過保護な彼女のことだ、これから暫くは劉備の側を離れまい。


「もう、大丈夫ですか?」


 案じる諸葛亮に劉備は頷く。


「心配をかけてすまなかった。僕にはやるべきことがあるからね。感傷に浸っている暇なんてない。もう、大丈夫だよ。……幽谷も、今朝まで家の外に控えていてくれてありがとう。身体は冷やさなかった?」

「お気遣い恐縮です。私のことならばお気になさらず」


 拱手(きょうしゅ)して返せば、劉備はほんの少しだけ寂しそうに笑う。彼の金の目が何処か遠くを見ているように思えて、幽谷は首を傾げた。


「そうですね。十万の兵を撃退された曹操はさらなる兵を新野に向けるでしょう。早々に、次の手を打たねばなりません」

「あのヤローまた攻めてくんのかよ! ホントこりねーな!」


 張飛が忌々しそうに掌に拳を叩きつける。諸葛亮に策を問うが、類稀なる軍師は静かに首を横に振った。

 確実に、曹操は前回以上の兵力を以て押し寄せるだろう。であれば、この兵力、そしてこの地では打つ手は無い。
 故に、今回は逃げの一手だ。
 速やかに新野から引き上げ、曹操軍を防げるであろう襄陽城へ退避する。
 淡々と告げられたそれに、猫族は暫し思案し黙り込んだ。


「……そうか。襄陽から新野に来てまだ日も浅いが、こうなっては致し方ないな」


 納得した風情で趙雲が頷けば、ふと関羽が口を挟んだ。


「この新野にいる人たちはどうするの? 曹操がそんな大軍で攻めてきたらみんなも無事ではすまないわ」

「無論、猫族と荊州兵は全員連れて行く。それとも、みんな、というのは新野に住む人間たちのことか?」

「そうよ」


 諸葛亮は大仰に嘆息し、関羽を非難するようにじろりと睨んだ。


「忘れたのか、ここ新野に来た時のことを。人間たちは、お前たちが近くに住むことを厭い、お前たちも人間と距離を取ったではないか」

「それはそうだけど……。でも、ひどいことになるとわかっているのに見捨てるなんて……」

「綺麗事だけでは乱世は生きていけない」


 そこで、傍観を決め込んでいた筈の恒浪牙が口を開く。諭すように、関羽に苦笑を向けた。


「……私も同感ですね。関羽さん。今の自分達の力をお考えなさい。あなた方を拒絶する新野の人間は、あなた方のように身体能力に優れてもいませんし、兵達のように鍛えていもいない。中には子供や老人は勿論、満足に歩けない方もいるのです。仮に猫族と共に逃げるよう説得が成功したとしても、その間に曹操軍は準備を進め進軍を開始するでしょうし、こちらも避難を順調に行える保証も無い。そんな状況下で、あなた方が満足に彼らを守れるとも思えません」

「でも……」


 関羽は渋る。
 彼女を、猫族は複雑そうな顔をした。彼らの心中は、恐らくは自分達を拒絶する人間など、助けたくはないだろう。けれども関羽が人間との混血であり、優しい気性の娘であることを分かっている為に、反対を口に出来ないでいた。

 猫族は、誰も無情になりきれない。

 恒浪牙は折れる気配の無い関羽に、後頭部を掻いた。「誰にでも優しいのは美点なんですがね……」苦々しい独白が漏れる。

 曹操がどれだけの兵力で以てこちらに攻め寄せるか分からない。が、今回の倍の予想では少ないだろう。
 そんな状況で、新野の民も共に逃げれば――――まず速やかには行くまい。まず人間に、猫族について行かせることが難儀な問題なのだから。
 それを思えば、曹操の為政者としての腕を信じ、大人しく彼らが降伏して曹操軍を受け入れさせる方がどちらも安全なのではなかろうか。

 そう考えつつ、幽谷はそれを口にすることはしない。決断するのはあくまで猫族だ。自分達はそれに従い、猫族の護衛を担うのみ。
 目を伏せ沈黙したままの兄を一瞥し、幽谷は劉備を見やった。

 彼は眦を下げ、申し訳なさそうに諸葛亮と恒浪牙を呼んだ。


「……すみません。僕も彼女と同じことを考えていた。残された民は、どうするんだろうって……」

「劉備様」

「でしょうねえ……」


 恒浪牙は両手を挙げて、劉備に頷いた。「あなたの好きに決めなさい」そう言って、引き下がる。元々、年長者として忠告はするが諸葛亮程強く反対するつもりはなかったのだろう。劉備の意思を尊重し、あっさりと受け入れた。


「ただ……急がなければならない状況で、あなた方を蔑む人間の説得から始めなければならないのですから、厳しい選択ですよ」

「分かっています」


 恒浪牙は諸葛亮に肩をすくめて見せた。

 諸葛亮は得心しかねる面持ちで劉備を見つめる。
 そんな軍師に、劉備は己の思いを語った。


「確かに僕たちは理解されていないだろう。でも、劉キ様の言葉を信じるなら、荊州の民は僕たちとご先祖が同じなんだよ。元は同じ一族なんだ。だからというわけではないけれど、やっぱり、見捨てることは出来ないよ」


 長の言葉に、猫族達もぽつりぽつりと同意を示し始める。

 それらを聞き、諸葛亮は心底呆れ果てた。長々とした嘆息を漏らし、毒を吐く。


「これだから何百年も外敵もなくのうのうと暮らしていた種族は……。甘い、甘すぎるぞ」

「ごめんね、諸葛亮。でも、そんな種族の長が僕だから……」


 諸葛亮は主を一瞥し、目を伏せた。諦めたように瞼をゆっくりと押し上げ、了承する。……関羽を忌々しそうに睨めつけて。
 すぐに思案を巡らせた彼は、羽扇を撫で猫族を見渡した。水の如(ごと)流れるように指示を出し始めた。


「ではまず民を新野城に避難させる。関定は町に立て札を掲げろ。曹操軍が攻めてくる、助かりたい者は、城へ避難せよとな」

「了解!」

「趙雲は船の用意を。張飛、蘇双は藁や茅といった燃えやすいものを、十分に用意しておいてくれ」

「承知」

「おう!」

「劉備様は私と共に新野城へ。領主と役人に民の受け入れを了承させねばなりません」

「わかった」


「周泰達は――――」幽谷と周泰を見やる。
 思案し、目を細めた。


「二人はここに残り、曹操軍を見張れ。博望坡に現れたら即座に報せるんだ。勿論、その規模もな」

「分かりました」


 兄妹揃って拱手する。
 と、趙雲が物言いたげに前に出たのを、恒浪牙がすかさず手で制した。


「無理に接近するな。特に幽谷は、夏侯惇に見つかれば厄介な事態になりかねん」


――――夏侯惇。
 その言葉に、凪いでいた胸中がぐにゃりと乱れた。どくどくと心臓が早鐘を打ち出す。ぶわりと汗が噴き出し総身が粟立った。

 これは、恐怖だ。

 一夜明けて改めて思い出した今、あの時の正気とは思えないような強すぎる眼光と激情に、自分の奥深い部分が恐怖し始めた。
 諸葛亮に言われるまでもなく、会いたくはない。よしや、失った記憶に関係しているかもしれない人間であろうとも。張遼という、過去を知っているかもしれない人間が側にいようとも。

 夏侯惇というあの恐ろしい男にだけは、接触したくなかった。

 息を止めて胸に手を当てると、諸葛亮は念を押すように名を呼んだ。


「良いな」

「……はい」


 掠れた声も漏らせば、周泰が幽谷の腕を掴む。仰いでも、彼は劉備を見据えている。


「少し、外へ」


 淡泊に言い置いて、返事も待たずに幽谷を天幕の外へ連れ出した。
 天幕から暫く離れると、手を離す。

 兄を呼んだ妹を振り返ること無く数歩歩いて距離を取った周泰は、徐(おもむろ)に腰を低く沈めて拳を握った。


「鍛錬に付き合え、幽谷」



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