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 一旦部屋に退がった張遼は、寝台に客人がいるのに和やかに拱手した。

 全身を漆黒に包んだ客人は返事も返さず、組んでいた足を解いて立ち上がった。腕組みして張遼に向かい合う。黒い隻眼だけが張遼を不快そうに睨んだ。低く、覆面でくぐもった声で咎める。


「遅い」

「申し訳ありません。少々長くなってしまいました。お茶を淹れ直しましょう」

「要らない。僕だって暇じゃあないんだ。お前と話をつけたらすぐにあっちに合流しないといけない」

「そうですか。それは残念です」


 客人は長い髪を揺らして舌打ち。窓を見やって、「幽谷のことだけど」話を切り出した。


「あいつや犀煉や僕、それに砂嵐のことは誰にも話すな。十三支にも、曹操軍の人間にも、幽谷自身にも」

「分かりました。ですが、説明をいただきたく思います」

「……恒浪牙によって記憶が消され、泉沈の見た予測に基づいた記憶を植え付けられた。今の世界に僕達の痕跡は何処にも何一つ残っちゃいない。……あんたと、《あいつ》が黙っててくれればね。それがお前の大好きな関羽の為にもなる」


 隻眼を細め、客人は告げる。

 張遼は二つ返事で了承した。恒浪牙がそのようにしたのなら、何か理由あってのことだろう。関羽の為になるのなら断る理由も無い。
 客人の言う《あいつ》が少しだけ気になったが、問うたところで答えてくれる筈もなかろうとそのまま聞き流した。


「分かりました。では、そのように振る舞いましょう。夏侯惇殿は、どうなさいます?」

「知らん。そこまでは僕も言われてない。ま、知らないだけだろうけど。ただ、お前が話さないように釘を刺してこいと言われただけだ」

「そうでしたか。でしたら夏侯惇殿にも話さぬように致しましょう」


 そこで、彼はあっと声を漏らす。


「何さ」

「いえ……あの時関羽さんに会いましたのに、幽谷さんに驚いてしまい、私の主になっていただけるようお願いをするのを忘れておりましたのを、今思い出しました」

「……。……お前さ、『何々さんから言われたので、存じておりますがお教え出来ません』とか間抜けなこと言うなよ?」

「ああ、私の真似ですか? とてもそっくりだと思います」

「こいつは……。本っ当にお前の相手は疲れるよ。じゃあな」

「はい。この度はご足労、ありがとうございました」


 嘆息しながら客人は張遼に背を向け片手を振る。一枚の札を銜(くわ)えて窓に足をかける。軽々と飛び降りた。
 外を見下ろせばもう彼女の姿は確認出来ない。誰にも見つからずに無事に許都を出られるだろう。
 それでも拱手し、張遼はきびすを返した。

 急ぎ出陣の準備をしなければならない。
 あまり遅いと、夏侯惇達に起こられてしまう。
 張遼は一度だけ窓を振り返って部屋を出た。



‡‡‡




「……何で俺が第二陣なんか……せめて夏侯淵殿と入れ替えて下さいよ……」

「いつまで泣き言を言うつもりだ。もう決まったことじゃないか。頭を切り替えろ!」


 夏侯淵にばしんと強く背中を叩かれた李典は前のめりになって呻いた。発破をかけてくれているのかもしれないけれど……痛い。
 弱り切った顔で嘆息する李典を一瞥し、夏侯惇は正面を見据える。

 幽谷。狐狸一族の娘。
 彼女を生け捕りにする。そしてこの感情の何たるかを確かめるのだ。
 彼女には申し訳ないとは思うけれど、激情は止められない。
 一人拳を握り締める。

 その時だ。


「あっ――――夏侯惇殿。何か落としましたよ」


 李典がそう呼びかけた。
 足を止めて振り返れば彼はその何かを拾い上げて夏侯惇へと差し出した。

 簪(かんざし)だ。

 質素ながらに味のある意匠を凝らした美しい装飾具。
 受け取りながら夏侯惇は首を傾げた。こんな物を持っていた記憶が無い。


「何処から落ちた?」

「え? この間出陣する前から帯に差していたじゃないですか。覚えていないんですか?」

「……いや」


 そんな覚えは全く無い。
 簪を見下ろして眉間に皺を寄せる夏侯惇に、夏侯淵がそっと言う。


「出陣する前に女官か何かに渡されて帯に差していたのを忘れてたんじゃないのか? 兄者、そういう女にはいつも素っ気無いだろ」

「……」


 そうかもしれない。
 だがそうじゃない気もする。
 渋面のまま簪を眺める夏侯惇は、ふと簪の所々に埋まった複数の珠(たま)を見て疑念を持った。
 赤い中に一つだけ薄い青だ。

 ……こんな色をしていただろうか?

 記憶にも残っていない筈だのに、どうしてか違和感を感じて苦い物を胸に感じる。
 その青は、青くなかったように思う。では何色だったのか。

――――赤だ。

 そうだ、この簪に埋まっていた珠は全て赤かった筈。
 けれども何故そんなことを知っているのだ、俺は。


「何故……」

「兄者?」

「……、いや、何でもない。行くぞ」


 簪を帯に差し、夏侯惇は大股に歩き出す。

 どんどん遠ざかる夏侯惇の様子に夏侯淵は怪訝に首を傾けた。李典を振り返り、互いに肩をすくめ合う。


「どうしたんだ、兄者。さっきのことと言い、兄者らしくないぞ」

「それだけ、十三支にしてやられたのが悔しいんじゃないですか?」

「それだったら賈栩の副将でも良いなんて言わないだろ」

「それもそうですね。……狐狸一族の女にご執心、とか?」

「はあ?」


 夏侯淵は奇妙な顔をして李典を振り返った。
 有り得ない。あの夏侯惇が、有り得ない。


「兄者がたかだか化け物の女一人のことであそこまで言うものか」

「でも、やっぱりそれ以外に原因らしい原因は分からないじゃないですか。っていうか、化け物じゃなくて天帝に近い瑞獣の一族だって話してたじゃないですか。嫌ですよ、夏侯淵殿の所為で俺まで罰が当たったりしたら」

「じゃあ、やっぱり十三支に敗けたのが悔しいんだ」

「さっきご自分できっぱり否定なされましたけど」

「五月蠅い!」

「いたっ!! 殴らないで下さいよ! ……って、無視しないで下さい!」


 頭を抱えて抗議する李典を置いて夏侯淵は夏侯惇の後を追いかける。
 有り得ないと心の中で断じ、夏侯惇が生け捕りをと望む狐狸一族の女に闘志を燃やしながら。



――――後ろで、李典が嗤(わら)ったのに気付かずに。



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