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 報告を終えた夏侯惇はその場に平伏した。
 声を絞り出し心からの謝罪を主へと捧げる。

 曹操は目を伏せ片手を軽く振った。やはりこの戦果を予想していなかった訳ではないらしい。落胆こそあれど夏侯惇をキツく責めるようなことは無かった。


「まさか、自分たちの長を囮に使うとはね。その諸葛亮という男、噂どおり相当な策士のようですな」


 側で報告を聞いていた賈栩が顎に手を添え思案顔で言う。

 曹操は薄く目を開け囁いた。


「我が軍に劉備を追わせたのは、誘い込むことだけが目的ではなかったようだがな」

「どういうことですか?」


 瞼を完全に押し上げ張遼を流し目に見やる。


「劉備がついに力を目覚めさせたそうだな」

「はい、曹操軍の猛追の中、本来の姿を取り戻しました。おそらくはその危機に応じてかと」


 張遼は穏やかな表情で頷き、言葉を返した。

 曹操が細く吐息をこぼすのを見た賈栩が軽く目を瞠る。


「我々に追わせたのは、そのためだと? 劉備の覚醒のために、わざとその身を危険にさらしたというのですか……?」

「もちろん、上手く行かなかった場合のこともちゃんと考えていたと思いますよ。狐狸一族の方がいらっしゃったのですし」

「……狐狸一族、か」


 狐狸一族の話なら、曹操も聞いたことがあった。
 何千年昔に存在した瑞獣、九尾の狐を長とした半獣人の神の一族。十三支とは正反対の存在である。
 そんな存在が今日に至るまで存在していたとは寝耳に水の話だ。もうその話は古い文献にしか登場しない。それを読破した人間ですら、遙か昔に絶滅した一族乃至お伽噺の中の架空の存在と断じている。

 それがまさか、十三支に荷担していようとは。

 非常に厄介だ。


「張遼、その狐狸一族は十三支と何の繋がりがある」

「狐狸一族の長が嘗(かつ)て、猫族の祖劉光と親しい間柄であったそうです。呂布様から聞いた話ですので詳しくは知りませんが。ただ……長の気分を損ねるようなことは、絶対にしてはならぬと仰っておいででした。あの方は誰よりも天帝と、仙界でも上位の方々に近いお方。彼女を傷つけてしまえば仙人全てを敵に回しかねない程の尊い存在であるとか」

「……つまり、このまま私が十三支を狙えば仙人からの粛正を受けると?」


 張遼はやおらかぶりを振って否と答えた。
 曰く、狐狸一族の長は人間の世には介入しない。狐狸一族を数人遣わしたのは劉光の子孫であるからで、人間である曹操のすることに興味も何も示さないだろうとのこと。
 このまま猫族を追ったとて、狐狸一族の者達が加勢するだけで仙人などの規模には至らないのだ。と言っても、狐狸一族の者であるだけで十分脅威であることは間違いないのだけれど。


「狐狸一族の方々は個々で非常にお強いそうですよ。その上四霊ともなれば、」

「ちょっと待て。さっきから言ってる四霊っての、四凶だろう。卑しい化け物を言い間違えるなよ」


 口を挟んだのは夏侯淵だ。眉間に皺を寄せて張遼を睨んでいる。
 張遼は首を傾けた。


「いいえ、四霊です。四凶とは、人間が独自で付けられた別称です。天仙によって作られた世界の抗体。元々は呂布様を殺める為に世に産み落とされた存在であると聞いております。南では、このことから信仰の対象とされているようですが……皆さんはご存じないのでしょうか?」

「初耳だね。四霊ってことは応龍、鳳凰、霊亀、麒麟……それぞれに当たる人間がいるってことかな?」

「はい。博望坡にて劉備さんの側におられた方は応龍。四霊の中で最もお強くてお美しく、そして気難しいお方の器でした。それ故に、四霊の方々は方術とは少々異なる術をお使いになれるのです」


 脳裏に思い浮かぶのはかつての幽谷の姿。過去も現在も、あの美しい色違いの双眸は損なわれていない。
 幽谷の顔を思い浮かべ、とろけるような笑みをこぼす。その隣に主として関羽の姿があればもっともっと良かったのに。一体、彼女に何が遭ったのだろう。

 後で、《あの方》に訊ねてみましょう。
 そこまで思考が至って、張遼は身に刺さるような視線を感じた。誰かと顔を上げると険しい顔をした夏侯惇がこちらを射殺さんばかりに睨めつけていた。

 ここに来るまでに、夏侯惇に幽谷の名を出さぬようにとキツく言われていた。
 幽谷の名を出し、あれこれと話を展開させたくないのだと言っていた。それが建前であろうとは、張遼でも分かった。
 彼女と相対してから彼は上の空だ。かと思えば何か燃えるような感情を隻眼に過ぎらせる。それが何という感情なのか、張遼には分からなかった。

 夏侯惇の様子に気付いているのは、隣に立つ李典だけか。困惑するように上司を見ていた。


「……それで、どうするんです? あちらには古文書に見る神の一族に加え、勝つだけでなく曹操軍十万を利用した諸葛亮という男、正真正銘の化け物がいるんですよ」


 賈栩が首筋を撫で曹操の発言を促す。
 このまま十三支を諦めるか、諦めずに十三支を追いつつ南征を続けるか――――決めるのは曹操だ。

 曹操は目を伏せた。思案するように声も無く唇だけで動かす。
 暫し間を置いて、


「許都より逃れし十三支たちを、再び我が手に取り戻さんと思っていたが……」

「そんな悠長なことを言っている場合ではないかもしれませんな。十万の兵でこの有様ですからね」


 瞼を上げた。
 唇を酷薄に歪め「いいだろう」


「十万で足らぬなら、更なる兵を向けるまで」


 片手を振るい、彼は声を張り上げた。


「皆の者! これより再び新野に出陣する!」


 第一陣、賈栩。
 第二陣、夏侯惇。
 第三陣、張遼。
 第四陣、夏侯淵。
 第五陣、総大将曹操。
 各陣十万、総勢五十万の兵を以って侵攻する。

 高らかな号令に、しかし夏侯惇は待ったをかけた。


「曹操様。俺を第一陣に入れてもらえませんか。副将で構いません」

「……何?」

「兄者?」


 夏侯惇らしからぬ言葉に、曹操も、張遼を除いた彼以外の者も、一様に怪訝そうに眉根を寄せた。
 降将の副将でも良いとは、彼にとっては大き過ぎる譲歩だ。


「兄者、どうしてそんなことを、」

「加えて、狐狸一族の女を生け捕りにすることをお許し下さい」


 夏侯淵の言葉を遮って夏侯惇は深々とこうべを垂れる。
 曹操はいよいよ訝(いぶか)る。


「……なにゆえに」

「分かりません。ですが、俺はあの女のことがどうにも気になります。捕らえて言葉を交わせば、その理由も分かるかもしれません。勿論、生け捕りに関しては俺一人で構いません。曹操軍の将として、軍律を乱すこともありません」


 賈栩が夏侯淵を見やる。夏侯淵は李典を見やる。
 李典は困惑しきった顔で首を左右に振った。彼らにも夏侯惇の発言については意図が読めなかった。

 曹操がじっと見つめるのを夏侯惇は黙して受け止める。
 暫くして、曹操は李典を呼んだ。


「……李典。第二陣はお前に任せる。賈栩、夏侯惇の副将として第一陣に」

「へ?」

「はっ」


 ぽかん、と顎を落とした李典に、夏侯惇が小さく謝罪する。ややあって、曹操の命を理解した。血の気が一気に引いた。


「え、ちょ……はああぁぁぁ!? 無理ですそんな! 俺はまだそんな器じゃありませんって!!」

「いや、お前の才は夏侯惇と私が保証する。やれ」

「そんな横暴な……っ!!」


 夏侯淵に助けを求めるが、「良かったじゃないか。しくじるなよ」なんて追い詰める。

 更には、夏侯惇に真摯な顔で謝罪と同時に厚く頼まれては断るにも断れない。……いや、元々総大将の命令なのだから拒否権は無いのだけれど。
 がくりと肩を落とした李典に、夏侯淵が歩み寄って肩を叩いてやった。



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