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「夏侯惇殿! ご無事ですか!!」
敵の追撃をようやっと免れた夏侯惇達を迎えたのは、部下の一軍だった。
軍の先頭を駆ける青毛に乗る青年の風体は、夏侯惇よりも幾らかは高い身長で痩せ形だ。寝癖のような無造作な髪を揺らしながら、決死の形相でこちらへと走らせる。
夏侯惇は馬を止め、安堵に深々と吐息を漏らす。「李典」薄く笑みを浮かべて青年を迎えた。
李典は夏侯惇の痛ましい姿に目を細めた。悔しげに唇を歪め、謝罪と共に拱手した。
「やはり俺もご一緒するべきでした。そうすればこのようなことには」
「……いや、お前の出陣を許さなかったのは俺だ。これは、俺の自業自得。お前が気に病む必要は無い。それよりも負傷した兵士を運んでくれ。もう走れまい」
「その為の軍です」李典は力強く頷いた。兵士達に片手を上げてみせる。
兵士達はそれに応え夏侯惇の軍に混ざる。
張遼はそれを見送り、馬を寄せてきた李典に朗らかに会釈した。
李典は拱手した。睨むように、真っ直ぐに張遼を見据えてくる。
この李典という青年、張遼をあまり良く思っていなかった。勘という不確かなものが働き、彼の存在を受け入れられないのだ。
けれどもそれを張遼が知る由も無く、その視線を受けてもなおにこやかだ。
「張遼殿もご無事のようで安心致しました」
「ありがとうございます。大敗を喫してしまいましたけれど……曹操殿はお怒りでしょうか」
「分かりません。ですが、十三支相手に負けることも視野に入れていたご様子です。ただ、……これまでの被害を推測しておられたかまでは、俺には分かりません」
気遣うように夏侯惇を見やる。上司として、師として慕っている夏侯惇が今、どれだけ自身を責め苛んでいるか、未熟な李典でも分かった。
兵士達が負傷者を抱えて戻ってきたるを視認し、夏侯惇を高らかに呼んだ。
「戻りましょう。今は一刻も早曹操様にこのことをお伝えし、軍を編成し直さねば」
「……ああ」
夏侯惇はやおら頷いた。
‡‡‡
一体何故、俺はあの女を欲するのか。
面識も無い女を俺が異性として強く求める理由など無い。だのに、あの女の身体を抱き締めたくて仕方がない。あの女をこの醜い激情のままに貪りたくて仕方がない。
今でも、彼の頭をあの十三支とは違う獣の耳を持った女が――――四凶の幽谷の困惑した顔がよぎる。揺れる赤と青の目に、赤い唇。日の光を受けた場所の一部だけが赤く煌めく不可思議な黒髪。惜しげも無く晒された肌。その細く柔らかな線。
全てが、夏侯惇の目には扇情的に見えた。
女が苦手だと自覚しているが故に、戸惑いも大きかった。
心を掴んで離さないのは幽谷なのか、はたまた別の何かなのか。
己のことである筈なのに分からない。
それが苛立たしくて、無意識のうちに舌打ちを繰り返す。
今自分が何を考えるべきなのか、それは幽谷のことではない。
大言吐いてこの惨敗だ、曹操軍古参の将としてなんと惨めな戦果か。無様な這々の体で曹操に会うことすら恥ずかしい。大勢の兵士も犠牲となった。
そしてよりにもよって劉備が、銀髪の悪魔と呼ばれた男が目覚めたのだ。これでは曹操の道を阻ませる手伝いをしてしまったようなものではないか。
けれどもそんなことが些末なことであるように、一瞬にして幽谷に思考は塗り変わる。
ただただ、自分の手元に置いて愛でたいと、《もう何処にも行ってしまわぬように》閉じ込めておきたいと、ゆらゆらと揺らめく不安定で危うい欲望が小さな炎をくすぶらせる。それはいつでも業火に変わる。そして夏侯惇に発破をかけることだろう。
危険な凶器の収め方を、彼は知らなかった。
きっと幽谷に対峙すれば自分はその凶器を抑えられずに彼女にぶつけるのだろう。
そして欲望のままに捕らえ、閉じ込める。
幽谷の意思も配慮せずに。
人道に反している。
分かっているけれど、止まらない。止められない。
自分でも理解出来ぬ自分の沸騰した泥のような感情が恐ろしい。
彼女と相見える時が恐ろしい。
会ったことも無い無関係な彼女に、この激情をぶつけて良いものだろうか。狐狸一族などという、初めて耳にする一族の娘に、理由無き激情をぶつけ――――。
――――壊してしまったとしたら。
「夏侯惇殿!」
不意に鼓膜を叩いた声に夏侯惇は強制的に現へと引き戻された。
声の主を見やれば、怪訝そうな李典が眉間に皺を寄せて夏侯惇を見つめていた。
「……っ、ああ、李典か。どうした」
「如何なさいました。何処かお加減でも?」
「いや、問題は無い。――――ああ、もうじき許都か」
夏侯惇は、目を伏せ、大きく深呼吸を一つ。
頭の中で戦の様子を思い出しながら、曹操に報告する為に言葉に変換して整理する。
一通りまとめたところで、瞼を押し上げた。
「李典、張遼。兵士達はそのまま歩かせろ。俺達はここより駆けて曹操様に報告を」
「はい!」
「分かりました」
馬の腹を蹴りつけ、走らせる。
それでも頭の中には幽谷の鮮明な姿がしつこく残っていた。
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