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――――ここで少し、時を遡る。
 宴の準備に奔走していた趙雲は、武器庫としていた天幕から伸びた腕によって中へと連れ込まれた。
 驚いて腕を払い襟首を掴もうとしていなされ、逆に背負い投げにされてしまった。

 背中を強か打ち付けられ趙雲は呻く。
 堅く瞑った目を開けて犯人を見上げると、張飛と良く似た髪型の、趙雲とほぼ同じか少し年下の青年が不愉快そうに唇を曲げていた。


「天仙に組み手たあ、良い度胸してんなお前」

「何者……」


 警戒を露わにした趙雲に、青年は顔を不快に歪めた。


「おいおい、何でこの格好だと誰も気付けねえんだよ。劉備も気付かねえし、武器見てやっと関羽が気付いてくれるって……協力する側としちゃほんと切ねえなぁ」


 趙雲を解放して立ち上がった青年は舌打ちして右手を横に突き出した。
 ややあって、そこに光が生まれ、細長く延びる。上方へ行けば太くなり、無数の針を生やした。
 光を振り払い、彼はその物騒な武器を趙雲に見せつける。これで気付くだろ、とでも言わんばかりの厚顔である。

 趙雲はその得物を見、「狼牙棒……」と呟く。

 そのような凶器を持っている者など、趙雲の知る人物の中でも一人しかいない。


「まさか恒浪牙殿……か?」

「そうですよー。本当に、昔の姿に戻っただけで誰も気付いてくれないのは寂しいですねえ」


 ……その姿でいつもの声音は合わない。
 趙雲は苦笑して身を起こした。


「申し訳ない……あまりにも正反対な姿だった故に……」

「良いよ。明日この姿で出た時に俺の代わりに説明してくれりゃ」


 狼牙棒を消し、近くの木箱にどっかと座り込んだ。

 趙雲は苦笑混じりにもう一度謝罪し、打ち付けた背中を撫でた。


「ところで、俺に何か用ですか?」

「……ああ、お前に二つ程確認しておきたくてな」


 足を組み、真摯な表情で趙雲を見据える。彼がすっと目を細めると、射竦められているようで無意識に背筋が延びた。


「曹操軍に張遼がいたらしいが、奴に何か言われたか?」


 何か……。
 記憶を手繰って思い出すのは幽谷が趙雲と合流した直後の張遼の言葉である。


『幽谷さん。あなたは呂布様が亡くなられた後もずっと、猫族の方々と一緒におられたのではないのですか? どうして、狐狸一族の方のような姿になっているのですか?』

『……やはり、皆様お忘れのようですね。何が遭ったというのでしょう』


 幽谷が、ずっと猫族と一緒にいた?
 そんな記憶は無い。彼が言うには、皆その記憶が欠落しているとのことだ。幽谷もまた、過去の記憶が無いようで、張遼の言葉に酷く反応していた。敵将であることも忘れて問い質そうとした。

 そして責任感の強い夏侯惇も、幽谷に対して何かの異変が生じていた。

 ……この天仙ならば、分かるだろうか。
 あの場で起こったことを掻い摘んで話せば、彼は眉間に皺を寄せがりがりと後頭部を掻いた。忌々しそうに舌打ちして、足を組み直す。


「恒浪牙殿、張遼は一体……」

「……忘れろ。恐らくは奴の中で様々な事象が起こってるのかもしれん。元々呂布の生ありきの存在だったんだ。何かしらの異変が起こってあいつ一人でも生きていけるようになったのか……その影響で記憶が歪んでしまっているらしい。それがどうして猫族と幽谷の有り得ない関係になったのは分からんがな」

「では、俺達と幽谷は、」


 恒浪牙は両手を軽く広げて肩をすくめてみせた。


「俺が言うまでもなく出会ったことねーだろ。それはお前の記憶が証明している筈だ」

「……そう、か」


 趙雲は肩を落とした。
 だが……何故だろう。何処か残念だ。幽谷と猫族や自分が今よりも近い存在だったなら……どれだけ良かっただろう。

 張遼は呂布が死んでから消息が途絶えていた。その間に彼の何があったのか分かるものは誰もいない。
 恒浪牙の言っていることはよく分からないが、張遼自身に何か変化が起こって記憶がぐちゃぐちゃになってしまっているのかもしれない。

――――《天仙が言うのなら、そうなのだろう》。

 趙雲は一人納得して、このことはこのまま自分の内に秘めておくこととした。


「で、これは誰にも話していないよな」

「ああ、宴で皆に訊いてみようと思っていたが、張遼の思い違いなら話すことも無いだろう」

「そうだな。それが良い。……夏侯惇については、俺の方で調べておこう。張遼は呂布の仙術がかけられていた。その名残が、夏侯惇にそのような異変を起こしたのかもしれねえ」

「仙術……そうか、呂布も仙人だと言っていたな」

「ああ、もうほとんどの奴ら覚えてねえと思うけどな。その方が天仙としては有り難いさ。あんなのと一緒にされたくねえから」


 片手をひらひらと振る彼は、心底嫌そうに顔を歪めている。

 それに苦笑を浮かべ、趙雲は宴の準備に戻ると天幕を出た。
 蟠(わだかま)っていた疑問が晴れて、気分はすっきりとしている。



‡‡‡




 恒浪牙は一人、長々と嘆息した。


「本当、あいつは術にかかりやすくて助かる」


 指をぱちんと鳴らせば彼の座る木箱を中心に不可思議な模様が浮かび上がる。図形と文字が複雑に絡み合ったそれは一瞬光を強めたかと思えば半瞬の間に消え失せた。


「後は張遼と夏侯惇、か……」


 だが、おかしい。
 何故夏侯惇の術が解けかけた?
 一番の不安分子である関羽と夏侯惇、そして曹操には念入りに記憶を入れ替えて固定してある。劉備の邪気に当てられた関羽ですら記憶にほつれは生じていないと言うのに……何故邪気も当てられていない彼の術がほつれた?

 張遼の影響……となれば危惧すべきかもしれない。
 曹操も記憶にほつれが生まれたら、滅茶苦茶な展開になっちまうじゃねえか。面倒臭い。

 隙を見て張遼に接触するか……。

 思わぬ伏兵だった。
 張遼など、呂布と共に死んだ筈だのに。
 何故、呂布もいないこの世で生きていられるのか――――。


「……ちっ、面倒ばっかり寄越しやがって、あのクソアマが……」


 毒づき、恒浪牙は立ち上がった。



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