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入室した諸葛亮は幽谷の傷に一瞬だけ痛ましげに顔を歪めた後、劉備に拱手してゆっくりと近付いた。
「あなたが殺そうが、あなたの部下が殺そうが、戦に勝つということは、何万という人間を死なせることです。自覚なさい。これがあなたの選んだ道です。あなたは長として、国を作ることを決めた。ならば、この事実を受け止めねばなりません」
静かに、鋭利な言葉を投げかける。
劉備は沈痛な面持ちで俯いた。さらりと髪が肩から流れ落ちる。
それを側で見ていた関羽は、身体を震わせて諸葛亮を睨めつけた。
「……どれほどのものを劉備に背負わせるつもりなの……諸葛亮?」
憎らしげに絞り出された声に、しかし諸葛亮は動じる様子も無く、涼しい顔のまま嘯(うそぶ)く。
耐えきれずに関羽は立ち上がって声を荒げた。
「ごまかさないで。全部……全部、あなたが仕組んだ事なんでしょう? 一体何のために!?」
「……、……劉備様に、本来の姿を取り戻して頂く必要があった。一族を率いる長としてこの乱世を、猫族が生き残るためにな」
「本来の姿を……? でもどうして、あんなことを!?」
「官渡の戦いにおいて、劉備様は覚醒された。確証はなかったが、おそらくは自身の命の危険に起因するのではと考えていた」
「だからなの……? だからわざと劉備を危険な目に遭わせたの!? そのためだけに、今回の戦を利用したの!? みんなを戦に巻き込んだの!?」
「そうだ」
関羽は顔を赤く染め上げた。諸葛亮に躍り掛かるのを幽谷が間に入って庇う。
「落ち着いて下さい」
「幽谷は黙っていて! 部外者のあなたには関係ないわ! これは猫族の問だ、」
「違う!!」
関羽の言葉を遮ったのは劉備の悲鳴に近い怒号だった。
ぎょっとして劉備を見やると、彼は泣きそうな顔で幽谷を見つめ、「違う」と首を左右に振った。
「彼女は……違うんだ。違うん、だ……っ!」
「りゅ、劉備? どうしたの? 何を言って……」
「長……?」
劉備を呼べば、彼は奥歯を噛み締め再び俯いた。
「僕が……僕が願ったんだ。本来の姿を取り戻したいと……そのために諸葛亮は策を用意してくれたんだ」
「劉備様には、策の内容までは知らせなかったがな」
だからこれは全て僕が望んだことなんだ。
そう断じ、諸葛亮の発言を肯定する。
関羽は悲しげに眦を下げた。劉備に対して過保護な傾向にある彼女はそれでも劉備を苦しませたくない、悲しませたくないと声を絞り出す。
けども、
「……僕が金眼の呪いに負けて多くの人間を殺してしまったのは事実。その罪を、消すことは決して出来ない。僕が一生背負っていかないといけないものなんだ」
「劉備様……。そうです、罪は決して消えません……」
囁くような声が、幽谷の髪を揺らす。
肩越しに振り返った彼は伏せ目がちに、何かを思い出し、その痛みに耐えているような顔をしていた。
「……諸葛亮?」
怪訝そうな劉備の声に、諸葛亮ははっとしてまたいつもの表情に戻る。
「それで、どういたしますか? 猫族の、自分たちの国を作ろうとすれば、何度でも戦になるでしょう。そのたびに、多くの命が失われる。劉備様ご自身の手で、奪う命もあるでしょう。……諦めますか? 国を手に入れるという夢を。それとも――――」
猫族だけが戦を免れ、殺しを全て兵や部外者の幽谷と周泰に一任しますか?
関羽の言った言葉を使い、わざと責めるように問いかける。関羽は反論しようとして、諸葛亮に睨まれてすぐに噤んだ。
それに気付かぬ幽谷ではないが、それも母の命令を遂行する為のことだろうかと口を挟まずに劉備の答えを待った。
劉備はまた泣きそうに顔を歪めて幽谷を見つめる。その金の瞳が以前のものとは何処か違うような気がした。漠然である為に何処がどう違うのかまでは分からなかった。
訝って眉根を寄せると、すっと視線を逸らされた。
暫し沈黙した彼は、眦を決して諸葛亮を見やった。
「…………ここでやめたら、それは僕が猫族の長であることから逃げることになる」
どんな苦しみに遭おうともその罪だけは負わぬと、決然と言う。
「幽谷達は先祖と親しくしてくれた狐狸一族。彼女に全てを押しつけることは、猫族の祖劉光への裏切りになる。それも、劉光の子孫として絶対に犯してはならない罪だ。彼女達を道具のように扱うことは出来ない」
諸葛亮は彼に大きく頷いてみせた。
「わかりました。その覚悟があるならば、どこまでも私は劉備様に従いましょう」
「……ありがとう、諸葛亮」
関羽は俯き、両手に拳を作って胸に当てた。縋るような顔で劉備に歩み寄った。彼の腕に手を当て、口を開く。
「わたしも……わたしも、ずっと側にいるわ。だから、そんなに抱え込まないで……」
「……ありがとう」
劉備はその腕をやんわりと剥がした。なるべく関羽を傷つけぬように、一人になりたいと彼女を拒絶する。
拒まれた関羽は戸惑って瞳を揺らした。どうして、とでも言わんばかりに見上げる彼女に、劉備は背を向けて座った。
関羽の伸ばした腕は、恐らくは無意識下だ。
それを掴んだのは諸葛亮。劉備の意思を尊重して足早に家を出た。
残された幽谷は劉備の後ろ姿を一瞥し、家の外に出た。
扉を閉めた後、その脇に端座する。護衛の為だ。気配を殺しておけば、邪魔にもなるまい。
目を伏せて暫くすると、中から劉備の震えた声が聞こえた。
『……関羽。君は、いつだって優しい……。だからなのかな……。胸がすごく苦しくなるんだよ……』
幽谷は瞼を押し上げ、また目を閉じる。
それからまた時間を置いて、
『幽谷。そこにいるんだろう』
劉備がこちらに声をかけてきた。
何か用かと中に入ろうとすればそれは拒絶され、そのままそこで聞いていて欲しいと。意思に従って端座した。
『ごめんね、幽谷』
それが顔の傷のことだろうと判断した幽谷は「いえ」と応えを返した。
「私のことならばお気になさらず。どうぞお休み下さい」
『……うん。ありがとう。申し訳ないのだけれど、少しお腹が空いてしまってね。何か入れておきたいんだ。少しで良いから、持ってきてくれないかな』
「承知致しました。すぐにお持ち致します」
『ありがとう』
幽谷は家に向かって拱手し、駆け足に陣屋の方へと赴いた。
――――故に、彼女の耳には、彼の囁きは届かない。
『僕は……もう君に守られる資格なんて無いんだ』
僕達を守ろうとしてくれた君と、苦しみ続けた彼女の命を、無価値なものにしてしまったのだから。
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