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 十万の曹操軍を撃退したとして、猫族も荊州兵も歓喜に沸いた。
 幽谷もその宴に巻き込まれ――――いや、招待されたが、如何せん劉備に斬りつけられた痛みばかりが気になってしまって、どうにも歩くのもままならない。

 恒浪牙に治療を受けたものの、四霊の身体には薬は効きにくい為に痛み止めも効果を成さない。
 水に漬ければ癒えるのだけれど、それも劉備や関羽に見られている手前、密かに癒すことも出来ない。恒浪牙なら一瞬で治せるだろうが、たかだかこの傷で彼の技術に頼る訳にもいかなかった。

 やむなく、人と同じ手当てを受けることとしたのだった。

 怪我を気遣ってくる張飛や蘇双達に断って、自身は天幕の隅にて振る舞われた食事を摂る。そうしながら、外の様子にも神経を尖らせた。周泰が見回りをしてくれているとは言え、曹操の間者が入り込んでいるとも限らない。
 幽谷の隣には浮かない顔の関羽が端座している。幽谷の傷の具合を心配してのこととしているが、その実素直にこの勝利を喜べず、空気に水を差さぬ為に自分から和を外れていた。


「いやー、まさか本当に勝つとはなぁ。六千ちょっとのオレらが十万の曹操軍相手にだぜ?」

「これも軍師殿の策のお陰か」

「でも、ボクと関定は結局何もしなかったんだけどね」


 直後、関羽の顔色が変わる。肩を縮めて口を真一文字に引き結んだ。俯くとさらりと長い髪が流れ落ちる。


「そうなんだよなぁ。いくら待っても誰も来ねぇんだもん。気づいたら、戦は終わってるし」

「でも、そっちの方から火の手あがってたぜ? 実際、諸葛亮の策通り、火に追われて曹操軍も逃げて来たし」


 劉備の所業については誰も知らない。あの場にいた人間と、恐らくは諸葛亮以外誰も。
 恒浪牙が仙術で広げた炎はその場の遺体全てを焼き尽くした。劉備の殺戮を最初から無かったことにするように、痕跡を消し尽くした。
 元々あの炎は劉備が放った邪気を浄化する為に放った仙術だ。戦力として戦に参加する気が毛頭無かった彼が炎で遺体をも焼き尽くしたのは、猫族が劉備を恐れないようにとの気遣いからだった。

 今回のことで劉備の精神はもう疲弊しきっている。己の自宅にて一人身体を休めているだろう彼の側に、今恒浪牙はいる。
 今の彼がもし猫族達から不審な目で見られてしまえば、その精神は保つまい。
 そうなることを危惧して、かの天仙は浄化するだけでなく殺戮の証拠を焼いたのだ。


「策は何通りも考えていたからな」

「!」


 関羽が大きく身体を震わせた。青ざめた顔を上げて、天幕に入ってきた人物を睨めつける。

 幽谷も顔を上げ、拱手した。
 彼は――――諸葛亮は幽谷の顔を見るなり目を細め、幽谷の隣へと歩いた。


「それって、ボクたちに説明した策以外にも仕込んでたってこと?」

「そうだ。今回はどうなるかわからない要素が多数あったからな。いくつもの展開を予想して策を立てていた。今回の結末はあくまでその内のひとつだ。私としては最も理想とする形ではあったがな」


 また、関羽が身体震わせる。


「あれが…あんなものが……、あなたの理想なの……?」

「姉貴?」


 憤懣を黒い瞳にたぎらせる関羽は諸葛亮を射殺さんばかりに睨めつける。
 諸葛亮は静かにそれを受け止め、口を閉じる。

 ややあって、関羽は目を伏せてかぶりを振った。腰を上げて劉備のところへ向かうと足早に天幕を出た。
 念の為と、幽谷も諸葛亮達に拱手して関羽を追いかけた。



‡‡‡




 関羽は劉備の自宅まで一言も話そうとしなかった。
 他者を拒絶する彼女の気配を慮(おもんぱか)って距離を取ってついて歩く幽谷も、一言も発さずに暗い夜道彼女の代わりに周囲を警戒する。

 劉備の自宅は窓から漏れる明かりで暗闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。その様は、何処か別れる前に見た憔悴した劉備の後ろ姿に似ていた。
 引き戸に手をかけ、そっと開ける。


「劉備……いる? 入るわよ……?」


 劉備はこちらに背を向けるようにして座っていた。やはりまだ、覇気が無い。

 恒浪牙の姿も探したが、今はいないようだ。

 劉備の力無い応えに関羽は胸の前で拳を握った。彼の側に片膝をついて具合を問う。不安そうな彼女に、劉備の目も一瞬だけ悲哀を帯びた。
 けれども皮肉めいた笑みを浮かべ、関羽に向き直る。


「気分? そうだね……とてもいいよ。だって、こうして本来の体になれたんだ。みんな、この姿を見たら驚くかな。君と並んでも、もうおかしくないよね」

「劉備……?」

「それに、あの数の曹操軍を退けたんだよ。十万もの大軍を倒したんだ。壊滅と言っても過言ではない……」


 そこで、劉備の耳が何かに怯えるように震え、下を向いた。


「そう……壊滅だ。あの数の軍が……何万という人間を……僕がこの手で殺したんだ……!」


 関羽は息を呑む。

 が、幽谷は静かに水を差す。


「……何万とまでは行っていないように感じられましたが。恐らくは一万を多少超えたくらいであると推定されます」

「っ、幽谷……!」


 関羽が幽谷を睨んで怒鳴る。反射的に口を噤んだ。
 彼女は厳しい眼差しを幽谷から外し、軟化させて劉備へと向ける。


「劉備。でもそれは、金眼の呪いで――――」

「違う! 全部全部、僕なんだ……! 確かに幽谷の言う通り何万とまでは行っていないかもしれない。でもそんなの関係ない。全部、全て、何もかも覚えてる!! 人を切り裂く感触も! 血の生暖かさも! 断末魔の叫び声も! そして何より……血に狂ってゆく僕を……」


 劉備は悲痛に声を荒げる。震えたそれは泣いているようにも思えて、関羽はますます表情を歪めた。

 彼が伸ばした手をぎゅっと両手で握り締め、劉備を呼ぶ。
 けれどもその手は振り払われた。


「君も見たはずだ! 哄笑をあげながら沢山の屍を築き上げる、この僕を! そんな、醜怪な姿を……! あんな、ひどく醜い……化け物! それが、僕なんだ……」


 金眼の力によって邪に染まる。
 そこに一体どれだけの恐怖があるのだろう。
 劉備と関羽の様子を黙って見つめながら、幽谷はそんなことを考えた。

 自分は彼の苦しみが分からない。
 邪悪な力をその身に秘め、邪に染まることに怯え続ける日々を送るなど、ただとても苦しそうとしか思えない。
 そんな自分に許されるのは、沈黙を保ったまま、二人の様子を眺めるのみだろう。

 と、不意に扉が静かに開かれる。


「何万という人間を殺すのが戦です」


 その声は、鋭利に二人を突き刺した。



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