12
気配が変わった。
崖の上から様子を眺めていた恒浪牙は狼牙棒を肩に掛け、目を細めた。
「劉備が力を解放したか……あいつ次第で、金眼の力は膨れ上がる」
それを覚悟しての決意だろうが、きっと彼は力の誘発する欲望には勝てまい。守る為に人を傷つけ、その度に闇に染まっていく。
そしてその力は周囲の者にも影響を与える。
「さすがに、暴走しすぎないよう、行っとくか」
それに――――劉備にかけた術は、ここで確実に解ける。
強引な力の解放によって身体は急速に成長を取り戻す。その衝撃に、恒浪牙のかけた術も恐らくは耐えられまい。金眼の力がどれ程のものか知っている彼は、こればかりは仕方のないことだと割り切っている。
彼には堅く口止めをすることとして、問題はその周囲だ。関羽や夏侯惇が、この力の近くにあることで術に綻びが生じかねない。壊れはしないだろうが、小さな亀裂に気付かれるとそこから記憶を引きずり出される恐れもあった。
その程度も、劉備次第である。
昔の姿へ装いを変えた彼は首筋を撫で、跳躍した。常人であれば即死する高さを何てことも無く落下し、着地。何事も無く走り出した。
‡‡‡
関羽達に追いついた幽谷は、長の絶叫と共に空気がざわめいたのに全身を粟立たせた。
この邪気は――――猫族の長が?
いや、兌州の村で感じたもの、襄陽城で感じたもの、そのどちらよりももっと濃厚で、危険だ。
身体に絡みつくような邪気はこの場にいる全員を拘束するかのように足下に溜まっている。見えない泥に足を突っ込んでいるが如く、満足に足が動かせない。
何なの……この状況は。
幽谷は息を呑み、関羽と、彼女を抱き締める銀髪の青年を凝視した。
あの青年が長であると、漠然と察せられる。
けれどもどうしてあの姿になっている?
この邪気は、どうしてこんなに濃いの?
一体、何が――――。
「ぎ、銀髪の悪魔だ!! うわああああ!!」
恐慌状態に陥った曹操軍兵士の震えた悲鳴に幽谷ははっと我に返った。そうだ、ここには曹操軍もいるのだ。幽谷よりも劉備達に近い場所にいる。
数の勢いに任せて恐怖を振り切り劉備に駆け寄ろうとしている彼らを目の端に留め、幽谷は泥を蹴り上げた。
劉備が、ゆっくりと立ち上がる。
関羽が制止するが彼は曹操軍へ一人近付いていく。
どくり。
――――駄目、だ。
頭の中で警鐘が鳴った。
行かせてはならないと、幽谷の本能が告げている。
幽谷は関羽ではなく、曹操軍に飛び込んだ劉備へと向きを変えた。
曹操軍に跳び込んだ後の彼の動きは、まるで一陣の風のようだった。神速の所作は視界に捉えきれず、銀が見えたかと思えば悲鳴と赤が舞う。その度に、邪気が濃くなっていく。
一瞬でどれだけの人間を殺しているのか――――幽谷すら分からない。
けれどほんの半瞬見えた劉備の顔は、嗤っていた。
「……長!!」
幽谷は槍を投げ捨て曹操軍の中、殺戮に喜悦する劉備を背後から羽交い締めにした。無理矢理に曹操軍から離れ、関羽のもとへ戻らせる。
泣きそうな顔をした関羽が劉備の前に回り込んだ。
「劉備! もう十分よ! お願い、やめて!!」
「どうして……? 彼らは敵だよ。彼らを倒さなければ、僕たちが殺されてしまう……」
劉備は心底不思議そうだ。関羽の言葉を理解出来ないでいる。
これは……《あちら》の劉備なのだろうか。
「それに彼らは、僕たち猫族を利用する。彼らがいる限り、僕たち猫族に自由はないんだよ……だからやっぱり、人間なんて、皆殺しにしないとね!」
「っ、」
幽谷を振り払い、躊躇い無く爪で裂く。右目のすぐ上を深く裂かれてその場に座り込んだ。流れ出た血が目に入り、反射的に瞼を閉じる。
関羽が劉備を責めるように声を荒げた。
「あなたは!」
「……ああ、ようやく全てを取り戻した。呪いの弊害で、犠牲になっていた僕の成長。頭、力、そしてこの身体……!」
感極まった風情で嗤い、高らかに哄笑した。
幽谷は斬られた箇所を手で押さえ、腰を上げた。匕首を握り直す。
「ようやく全て戻ってきたんだ!! あははははは! 関羽、これで僕は僕になれた! ねぇ、君は喜んでくれるだろう?」
「りゅ、劉備……」
「ああ、まず目の前の人間どもを片付けないと。君と僕を殺そうだなんて、馬鹿なことをしたね。今すぐその身を引き裂いてあげるよ!」
「――――出来るもんならな」
不意に降ってきた第三者の声。
えっとなって振り返ると、そこには見慣れぬ青年が、狼牙棒を持って小馬鹿にしたように劉備を見ていた。
‡‡‡
「てめぇの覚悟もこの程度か。どうやら俺も、諸葛亮も、過大評価だったらしいな」
やれやれ、とでも言わんばかりに嘆息した青年は幽谷の頭を撫でて暢気な足取りで劉備の前に出た。関羽の肩を引いて背に庇う。
劉備は露骨に不快を露わにした。
「何、部外者が邪魔するの?」
「部外者ねえ……これ見て分からんもんかね、クソガキ。内臓取り替えてやろうか」
関羽はその言葉に、彼の得物を見上げ、顎を落とした。
「狼牙棒――――まさか恒浪牙さん!?」
「関羽には分かったのになー」
鼻を鳴らして劉備を嘲笑う青年――――天仙恒浪牙は、関羽の頭を撫でた。
「で、でもどうしてそんな格好……別人みたい」
「そりゃあな。これ元々の姿だし」
「どうして?」
「こっちの方が全力で戦えるから。いつものあれ、本当に動きにくいんだわ。あの重い身形でこいつ一旦撃沈させんの面倒だし――――っと!」
ガキッ。
軽々といなした爪の一閃。
忌々しそうに舌打ちする劉備に恒浪牙は白けた顔で劉備を見やった。
「けどまあ、……ぶっちゃけその必要も無かったわな。弱い。覚悟もお前自身も弱すぎて骨折り損感が半端ねえわ」
「五月蠅い……そんなに死にたいなら今すぐ――――」
――――玉響である。
恒浪牙が口角をつり上げた瞬間劉備と恒浪牙が視界から失せた。
否、地面に伏している劉備の頭を恒浪牙が鷲掴みにして押さえつけているのだ。
「今のお前に頭(かしら)の資格は無えよ。自覚しろ。その上で、向き合え」
自分で決めたんだろ。
厳しい口調から一転幼子を諭すように柔らかになる。
彼の頭を叩くように撫でて立ち上がり、曹操軍の方へと歩き出す。
「あ、恒浪牙さん!」
「乱世の嵐から猫族を守りたいんなら、もっとしっかり腹決めとけ。でなけりゃ簡単に潰れるぞ。あと関羽、幽谷のこと頼んだ」
駆け出し、軍に飛び込む寸前に狼牙棒で地面を叩く。
そこから吹き出すのは真っ赤な炎だ。まるで噴火の如(ごと)火の粉を散らし、舞い上がり、草原を舐めるように広がっていく。
瞬く間に火の壁が恒浪牙と曹操軍を隔てた。
火計だ――――誰かが叫ぶ。
その声によって再び恐慌が広がり、命を奪う猛々しい炎から逃れようと逃げ出す。
彼らを追いかけるように、炎は勢力を広げた。
半狂乱になって逃げる曹操軍兵士の中に夏侯惇の姿を見つけた幽谷は、ほぼ無意識のうちに一歩足を踏み出した。関羽が危険だと腕を引いて、それ以上は前に行けなかったけれども。
恒浪牙が戻って絶入した劉備の身体を抱き上げた後も、夏侯惇の姿、言動が、頭にこびり付いて離れなかった。
.
- 55 -
[*前] | [次#]
ページ:55/220
しおり
←