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幽谷は劉備に断って馬から飛び降りた。槍を身に添わせるように持ち、二頭の馬の間を走る。馬を全力で走らせていても、幽谷には易々とついて行けた。
後ろからは夏侯惇と数人の騎馬兵が迫っている。夏侯惇の必死の形相に、背筋が凍った。覚えなど無いのに、何故自分が夏侯惇にあんな目を向けられなくてはならないのだろうか。彼の強烈な激情は幽谷に恐怖を抱かせた。
狭い道を越え、林に入る。
走りつつ周囲を見渡し、指で輪を作って口に挟む。息を吹き込んで指笛を鳴らした。
直後、狼の遠吠え。
夏侯惇達がそれに気を取られたその隙をつき、茂みから狼や虎が飛び出した。馬が驚き足を止めて動揺する。
四霊の力を使うことは禁じられているが、この場合は仕方がない。念の為だと諸葛亮にも許可を貰って獣達を伏せていた。
今のうちに、ある程度距離を離さなければ。彼らは剰りに速い。
「お二方、急いで下さい」
「でも、幽谷は、」
「私ならば十分追いつけます。お気になさらず」
劉備を見やり、幽谷は目を細めた。
馬を走らせるだけでも、子供の身体の彼には体力的に辛いものがあるだろう。
「劉備、こっちよ!」
「あ……!」
分かれ道。二股のうち左に逸れた関羽に幽谷は声を漏らした。そちらは予定とは違う道だ。
呼び止めようと口を開いた幽谷はしかしはっと身体を反転させて槍を振るった。
ガキッ。
弾いたのは一矢。
騎馬兵の中に弓を扱う者がいたのか!
幽谷は外套から飛ヒョウを取り出し弓を持つ兵士に投げつけた。離れていながらそれは正確に兵士の咽元を貫き、馬から落とした。
もう、獣を退けたのね……。
元々軽い足止め目的で協力を頼んでいたから、無理をしないように言い聞かせていたが、これではまたすぐに追いつかれてしまうかもしれない。
やむを得ない。
少しだけ速度を落として幽谷は夏侯惇達の馬に向かって声を張り上げた。
「私達を追うのを止めなさい!!」
一喝すれば彼らはすぐに従った。足を止めて転身する。帰ろうとするのを夏侯惇達が叱咤するが無駄だ。四霊の命には動物は逆らわない。小走りに元来た道を戻っていく。
諸葛亮の命に背いてしまったが、これで少しは時間稼ぎになる。
細く吐息を漏らした幽谷は関羽達を追わんと速度を上げた。
‡‡‡
劉備の消耗が激しい。
幽谷は背後を振り返り、関羽を呼んだ。
「暫くは急がずともよろしいかと」
「ええ。劉備、少し速度を落としましょう? あまり曹操軍を引き離しても囮の意味がないしね」
劉備は弱々しく笑った。自嘲めいた笑みに、関羽は眦を下げる。
「ごめん……。僕も戦いたいなんて言っておいて、全然役に立てないなんて」
「そんなことないわ! それに、子供の体力では仕方ないもの」
「……分かってる」
このままじゃ、駄目だってことはわかってるんだ……。
荒い息の中囁くように呟かれた言葉に関羽は聞き返す。
が、劉備は何でもないと首を左右に振った。
速度を落とし、関羽達は後方を気にしながら目的地を目指した。
だが、彼女らは気付いていない。行くべき道を間違えてしまったことに。
このまま進んでも、諸葛亮に抜かりは無い故問題は無いが、蘇双達には合流出来ない。
最悪、幽谷一人で二人を守ることになる。
気を引き締めるように、幽谷は槍を握り直した。
彼らの足音は、まだ遠い。
‡‡‡
滝の如き轟音がした。
……来ている。
幽谷は背後を振り返った。
轟音は幾重にも重なり、怒濤のように彼らに迫っていた。
本体と合流している。
趙雲は無事だろうか。
幽谷は槍を構えた。
「幽谷!」
「多少の時間稼ぎをします! すぐに合流します故に長を連れてそのまま!!」
「……っ、無理はしないで!」
幽谷は振り返らず、小さく頷いた。
夏侯惇と数合交え兵士を数人斬って立ち止まらせれば良い。
彼らが襲われること無く林を抜けるまで――――。
「――――幽谷っ!!」
「っ!」
馬を下りた夏侯惇が幽谷に襲いかかる。
鋭い一閃をいなし、蹴りつける。回避された。
勢いに乗せて肘鉄を顔へ放ったがこれも避けられる。
夏侯惇は自分よりも弱い。それは分かっている。
けれども彼は勢いがありすぎた。鬼気迫った彼は幽谷に執拗に攻撃を仕掛けては接近する。
「貴様は何者だ! 何故俺は貴様を欲する!?」
「仰っている意味が分かりかねます。私とあなたは初対面の筈。私は、あなたに対して何の感情も浮かびませんが――――っ!」
馬の嘶(いなな)きが聞こえる。やや遠い。
ぎょっとして左手を見やった幽谷は愕然とした。
林の向こうを走り抜ける大軍があった。彼らは《曹》の旗を掲げ、堂々と馬を駆る。
――――別働隊!
別の道を通って追いかけていたのだ!
騎馬兵達が通り過ぎていくのに幽谷は反射的に向き直り大きく口を開けた。あの距離なら、私の声も届く筈!
しかし――――。
「させん!」
「!?」
注意を逸らした隙を突かれて縦一閃。身体を回転させて紙一重で避けた。
寸陰も置かずに次の一閃。逃げる暇すら切り裂くように、反撃を許さぬ剣撃を繰り出した。
もたもたしている間にも、別働隊は遠退いていく。
足止めする筈が、こちらが足止めされているではないか!
大失策に奥歯を噛み締め、自分への憤りを込め槍を一閃した。剣で受け止めるも、渾身の一撃の衝撃は弱まらぬ。多少軽減された程度だ。
呻いてよろめく彼の足下に飛ヒョウを投げつけて走り出した。
「待て!!」夏侯惇の怒号を背に受け、関羽達のもとへと急行する。
「どうか、ご無事で……!」
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