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 趙雲に抱き抱えられるように馬に乗り、断崖の上を一気に駆け抜けた。馬に乗っておらずとも後れを取ることは無いのだが、転身して張遼のもとへ向かうことを危惧したのだろう。さすがに、この状況で戻る程自己中心的ではないつもりではあるが……。

 断崖の危うい道を抜けて、狭い道へと入る。岩壁の間を湾曲して延びる道の先には劉備達がいる。
 後方では大勢の人間達の足音が聞こえた。曹操軍は幽谷達の誘導に乗ってくれているようだ。
 この狭い道を行くとなると細い列となるが、中には弓兵もいる。多少の兵士も付けているが、劉備に何かあれば一大事だ。何としても守りきらなければならぬ。

 後方を気にしつつ暫く進むと、趙雲が不意に大音声を上げた。


「劉備殿――!! 関羽――!!」


 速度を弛めると、馬に乗った劉備と関羽がこちらに向かって駆け寄って来る。
 幽谷は咄嗟に後ろを気にするフリをして眼帯で隠していた方の目を彼らの目から隠した。


「趙雲、幽谷! よかった無事で!」

「急ぎ逃げろ!! 夏侯惇が迫っている。かなりの勢いだ!」

「でもすぐに逃げ出したら怪しまれてしまうわ!」


――――刹那である。
 幽谷は舌を打った。



「十三支の女ぁ!!!」



 怒号に、関羽が青ざめて偃月刀を構えた。
 もう追いつかれた。

 幽谷は岩の影から姿を現した曹操軍を認め、そちらを見たまま兵士達に声をかけた。


「兵士のあなた方は先に! 諸葛亮殿の指示通りに蘇双殿達と先んじて合流して下さい」

「し、しかし……!」

「長と関羽殿は、私がお守り致します。策を為す為に、さあ、お早く」


 護衛の兵士達は彼女の力強い言葉に逡巡した後、短く頷いた。馬を下り、趙雲と共に劉備達を庇うように立って槍を構えた。
 関羽が前に出ようとするのを、片手を挙げて制す。そのまま馬上にいるようにとキツく言っておいた。


「様子がおかしいと思ったら、十三支の女! 貴様が伏兵だったのか!」


 彼は幽谷に鋭い一瞥をくれると、その後ろの馬に乗る劉備に気付き目を剥いた。
 彼らにとって、劉備に抱く恐怖はいかほどのものなのか。青ざめ戦慄(わなな)く夏侯惇の様子は尋常でない。

 劉備は息を呑み、それでも凛然とした態度を保とうとしている。

 幽谷は夏侯惇を見据え、地を蹴った。


「っはあぁぁ!」

「……ぐっ!」


 剛力で以て槍を大きく振り払い、夏侯惇をよろめかせる。
 すかさず肉迫して肩に掌底を放たんと手を勢い良く伸ばした。

 が――――その手を捉えられる。

 何かを確かめるように間近に顔が迫り、幽谷は手を振り払って後退した。

 すると、今度は夏侯惇が距離を詰めて斬りかかってくる。危なげ無く回避して外套の下から引き出した匕首にて夏侯惇の肩口を裂いた。
 更に後退して匕首を口に銜えて槍を構え直した。

 けれど、夏侯惇がまた頭を抱え出して動きを止めるのだ。


「ぐ、うあぁ……つっ」

「あの……?」


 幽谷、匕首、暗器、赤と青の瞳、四凶――――。
 目を剥き、譫言(うわごと)のように単語を並べ立てる。それが全て、幽谷に関係しており、大きく困惑した。


「……あ、の」

「――――何故、お前が……!」


 夏侯惇は幽谷を睨めつけた。隻眼に宿る激情に突き刺され、幽谷は困惑した風情で一歩後退する。

 張遼が不審に思って歩み寄るが、剣を振って近付けさせない。

 ゆらり、立ち上がった。ぎらついた眼光は凄まじく鬼気迫る。
 剣を構え幽谷へ歩み寄るのに、一歩、二歩と逃げるように後退した。尋常でない様子に冷や汗がこめかみから流れた。


「……夏侯惇殿。私が、何か……?」


 震える声で問いを投げると、またふらつく。
 苛立ったように奥歯を噛み締めて幽谷を怒鳴った。少々、混乱に声が震えていた。


「お前は何だ!? 何故だ、何故、俺は、お前を――――お前は一体何なのだ!?」

「は……お、仰っている、意味が……」


 何なの、この人……。
 どうしてこんな風に、なっているの。
 私に関係していること?
 でも私にはこの人の記憶が無い。会った覚えが無い。


 ……まさか、この人も昔の私と?


「あの――――」

「幽谷、逃げるわよ!」


 近付こうとした幽谷の手を関羽が怒鳴りながら掴む。咄嗟に振り返ってしまった幽谷の両目に息を呑むも一瞬、劉備を呼んで無理矢理に彼女を劉備の馬に乗せた。


「関羽殿、しかし、」

「良いから、今の夏侯惇の様子は尋常じゃないわ。趙雲も行きましょう!」

「いや、俺はここで足止めをしておこう。多少、だろうがな」


 大剣を構えて曹操軍と対峙する趙雲は、幽谷を見やって関羽に頷いて見せた。

 それに応じ、関羽は馬主を返す。腹を蹴って走り出した。
 劉備も幽谷を呼び、彼女の腕を掴んで馬の腹を蹴る。
 待ったをかけても彼は幽谷の腕を放さなかった。



‡‡‡




 匕首を扱う赤と青の目を持つ、武力に秀でた女の四凶。


『夏侯惇殿』


 既知感のある呼び方だった。

 何故だ。

 何故、俺はこいつを欲する?
 会ったことが無い筈だのに、彼女に対する欲求が溢れ出す。

 猫族と共に在ったとありもしない事実を話す張遼にも怒りを感じる。自分が分からない。張遼に妬心(としん)を、抱くなど……。
 呂布軍の毒矢にやられた片目がいやに疼く。

 その疼きは全身に広がり、夏侯惇を急かす。幽谷を追え、そして手に入れろと。激情の根源も分からぬまま、彼女を逃がすなと怒鳴りつけてくる。


「何なのだ……一体……!」


 幽谷。
 その名を心に浮かべるだけで疼きは酷くなる。


 彼女を手に入れれば、これも収まるのだろうか。


「……張遼」

「……はい、何でしょう」

「俺はあいつらを追う。お前は趙雲を」

「分かりました」


 趙雲がはっとして通すまいと夏侯惇へ斬りかかる。されど張遼に攻撃されそちらを大剣で受け流した。

 その隙に馬を走らせ趙雲の脇を通り抜ける。
 呼び止める趙雲の怒声が聞こえたが、夏侯惇は足を止めなかった。



 一刻も早く、幽谷に対するこの激情の理由を、早く知りたかった。



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