趙雲に謝罪の意味を込めて頭を下げ、幽谷は周囲を取り囲んだ兵士達を見渡した。
 やはり、少し遅かったか……。
 合図は火計の準備が整ったとの報せを動物から受けてからと予(あらかじ)め決めてあったが、何の不備があったかその報せがついさっき届いたのだった。

 兵士達は無事包囲を抜け撤退している。それがせめてもの救いか。


「趙雲殿。私が露払いを。道を作ります」

「分かった。俺も、手伝おう」


 幽谷は頷き、趙雲と共に包囲が未だ薄い箇所へと突進しようと足を踏み込んだ。

 まさにその時である。


「幽谷さん?」


 背後で、己の名を呼ぶ人物に動きを止めた。
 肩越しに振り返ると、不思議そうに幽谷を見つめる一人の金髪の青年が。見覚えは、無い。

 されど青年はこちらを知っている様子であった。


「幽谷さん、なのでしょうか。以前お会いした時とは随分とお姿が変わっておられるようですが……それに、その耳はまさか狐狸一族の――――」

「以前、お会いした、時……?」


 ……そ、れって、もしかして。
 幽谷は身体ごと向き直り青年に三歩程歩み寄った。それ以上近付かなかったのは趙雲が幽谷の腕を掴んだからだ。

 咎める趙雲の声などには構わず、幽谷は青年に問いかけた。


「あなたは……あなたは、私の《過去》をご存知なのですか?」

「過去? 過去とはどういう――――」

「何をしている張遼!!」


 幽谷が右手に迫る隻眼の青年を見た瞬間、後ろに強く引き寄せられた。その半瞬後には幽谷のいた場所を縦に裂かれた。

 先程脇腹を蹴りつけた青年だ。脇腹の痛みに顔を歪めながらも、閃光の如き鋭い一閃を繰り出したのだ。動けない程度の力を加えたのだが、武人としてその乱れ無き太刀筋は見事。
 憎らしげに、趙雲に抱きかかえられるように庇われる幽谷を苛立たしげに睨んだ隻眼の青年は、彼女の耳を見て瞠目した。


「その耳……十三支、か?」

「いいえ、違います」


 否定すると、胡乱げに眉間に皺を寄せた。


「幽谷さん。あなたは呂布様が亡くなられた後もずっと、猫族の方々と一緒におられたのではないのですか? どうして、狐狸一族の方のような姿になっているのですか?」

「え……」

「……幽谷が、呂布亡き後も猫族と?」


 趙雲は幽谷を見下ろす。思い出そうとしているようだが、幽谷についての記憶は見当たらないようだ。

 幽谷は趙雲の腕を逃れて青年――――張遼に歩み寄った。隻眼の青年は、張遼の言葉に困惑した風情で彼を睨む。


「おい、張遼。どういうことだ。こんな女、俺は今の今まで見たことが無いぞ」

「……やはり、皆様お忘れのようですね。何が遭ったというのでしょう」


 首を傾げる。
 幽谷は更に張遼に詰め寄った。
 この人は私の過去を知っている。確信した。
 状況や策をも忘れ、張遼に矢継ぎ早に問いを重ねた。


「私はこのような姿ではなかったのですか? 私は何処で生まれたのてす? 猫族の方々と一緒にいたのですか? 私は一体――――」


 張遼は少し困ったように幽谷を見下ろす。「失礼します」と手を伸ばした。
 彼の指が触れたのは片目を隠す眼帯だ。
 幽谷が避ける前に取り去った彼は、双眸を見て安堵したように微笑んだ。


「赤と青の、色違いの瞳――――ああ、良かった。以前のままですね。あなたの目は、とても美しいと思っておりましたので、安心致しました」


 労るように頬を撫でられ、幽谷は気が逸(はや)る。そんなことが聞きたいのではない。自分の過去が知りたいのだ。

 口を開こうとすると、不意に剣が落ちる音が上がった。

 幽谷は反射的に張遼から身を離して隻眼の青年に向き直る。音は高めだった。趙雲の得物が立てるような音ではない。となれば、落としたのは彼だ。
 何が遭ったのかと彼の様子を見ると、彼は頭を抱えて座り込んでいた。

 趙雲が何かをした?
 見やっても、彼も怪訝そうに隻眼の青年を凝視するのみ。
 彼でないなら……誰か、何を?


「夏侯惇? どうかなさいましたか」


 張遼が歩み寄る。側に屈み込んで顔を覗き込もうとするが、それよりも早く顔が上がる。

 見開かれた隻眼が幽谷の顔を捉えたかと思うと、彼は呻いてまた頭を抱えた。


「ぐ、うぅ……、っ何だ……!」

「夏侯惇殿、頭が痛いのですか?」


 趙雲が幽谷の腕を引く。「今のうちに」と囁いて駆け出した。壁を作る敵兵を大剣で薙ぎ払い強引に突破した。

 幽谷は後ろ髪を引かれる思いで張遼達を振り返るが、駆け寄ってきた馬に乗せられてそれどころではなくなった。
 昔の私を知っている人に会えたのに……。

 また張遼を振り返ると、趙雲に叱咤されるように呼ばれ、振り返ることも許されなくなった。



‡‡‡




 最初は、小さな違和感だった。

 幽谷という、十三支とも違う耳を持つ得体の知れない女の名を聞いた時、頭の奥で小さな火がくすぶっているかのような、言いようの無いもどかしいむず痒さを感じた。
 彼女から自分の深い部分で何かを感じている……かのような、よく分からない感覚。それだけなら強引に無視出来た。

 が、異変はそれだけでは済まず。
 その後、


『赤と青の、色違いの瞳』


 張遼の言葉を聞いた途端、脳内から頭蓋を殴られるような激痛に襲われた。
 何が起こったのか、自分でも分からなかった。だが赤と青の色違いの瞳という言葉に、意識が吸引されていくような、しかし不快ではない感覚を得る。痛いのに、その感覚だけは不快ではないと言うのは、奇異な現象である。

 色違いの目が原因か――――幽谷の顔を見た瞬間、痛みはより一層強まった。
 同時に胸中にてむくむくと御しきれぬ激情が膨れ上がっていく。生まれて初めてのそれに夏侯惇は強い困惑を覚えた。

 ただ、この突然の身体の異変の原因は確実に幽谷にあると、それだけは分かった。

 頭が痛い。
 頭が割れそうだ。
 頭がイかれてしまいそうだ。

 何故、こんなに痛むのか。

 何故、こんなに――――。



 こんなに強い欲求がたぎっているのか。



 幽谷が。

 幽谷が……欲しい。
 次第に言いようの無い激しい熱が夏侯惇の思考を支配していく。

 己の異変に、夏侯惇の理性は追いつけなかった。


「幽谷――――四凶の、女……っ」


『      』


 過ぎったのは茶髪の、幽谷と同じ色違いの目をした女だ。何を言ったのか、分からない。
 それを猫族とは違う獣の耳をした女に重ねると、全身が燃えたぎる。欲求が、昂ぶっていく。

 もし……もし、彼女が自分のもとに来るならば、少しは楽になるかもしれない――――。
 何の根拠も無い憶測は、彼自身が導き出したものではない。

 理性の奥の奥、閉ざされた堅牢な扉の向こうから、僅かに開いた透き間から漏れ出た囁きであった。


「張、遼」

「夏侯惇殿。幽谷さんも趙雲殿も、行ってしまいました。どうなさいますか?」

「……追うぞ」


 ふらり、夏侯惇は立ち上がる。
 幽谷。その名を呟いて、薙ぎ倒された兵士の先を走る馬を睨めつける。
 かつて感じたことの無い筈の熱すぎる欲に逆らわず、彼は己の愛馬を振り返った。兵士達に追いかける旨を怒鳴るように伝え、乗馬する。

 彼女を手に入れれば何かを《取り戻せる》――――誰かが、夏侯惇を急かしていた。


「夏侯惇殿……?」


 様子の変わった夏侯惇に、張遼は首を傾けた。



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