大軍の前へと果敢に向かう剛強正大な趙雲の軍を見送った幽谷は、一人その場に残り後方の樹上を見上げた。

 時期を見て、退却の合図を趙雲に示さなければならない。
 なるべく、不自然でないように。


「それまで、どうか皆様、ご無事で」


 願わくば、誰一人命を落としていないことを祈るのみである。



‡‡‡




 正面に敵が現れたとの報に、夏侯惇は驚きに声を荒げた。
 何処の軍なのか――――それは伝令に問うまでもなく明らかとなる。

 馬を駆け、兵士らとこちらへ向かってくるのは、一人の青年。


「止まれ―――!! 我は猫族が将、趙雲!! 曹操軍よ、これより先には進ません!!」


 夏侯惇は顎を落とした。


「趙雲だと! なぜ奴がここにいる!? まさか、十三支どもはこの十万の軍を迎え撃つつもりなのか!?」

「そのようですね。新野城で籠城するかと思いましたが、ここで野戦を挑んでくるみたいですね」


 たかが数千で……十万に正面から野戦?
 夏侯惇は鼻を鳴らし、馬を下りた。剣を構えて趙雲へと猛進する。張遼も、己の得物を手に軽やかに下馬、総大将に従った。

 それを視認した趙雲も馬を下りて足を止めた。


「来たな! 夏侯惇!!」

「趙雲! これはいったい何の真似だ!!」

「見ての通り! これより先は猫族の新しき地! お前たち曹操軍に新野の土は踏ません!」


 「ふざけるな!」勇ましい猛将を夏侯惇は荒々しく一喝した。


「これほどの大軍相手に正面から向かってくるなど、十三支どもとの馴れ合いで、すっかり勘が鈍ったか?」


 趙雲は不敵な笑みを深め、挑発するようにじり、と地面を擦る。
 勝ち気な態度に夏侯惇は隻眼を眇め、舌打ちした。


「俺の剣で確かめてやる! ゆくぞ趙雲! 勝負だ!!」


 言うが早いか趙雲へと斬りかかる。
 風を唸らせる一閃を趙雲はそれを大剣で軽々と弾き返した。

 夏侯惇はその反動に舌を打ち数歩後退して構え直す。忌々しそうに趙雲の大剣を睨んだ。


「相変わらず馬鹿みたいな剣だな!」

「一撃当たれば、それで終りだ」

「ほざけ! その前に切り刻んでやる!!」


 縦一閃。
 紙一重で避けた趙雲を一瞥しつつ夏侯惇は肘と身体を捻り左逆袈裟斬りに剣を振り上げた。

 それを間一髪開始した趙雲は口角をつり上げる。


「やるな、夏侯惇! 今のは危なかった!」


 言いつつ、不敵な笑みは変わらない。豪胆な人物である。
 趙雲の素早い斬り返しに今度のは夏侯惇が危なく回避した。

 改めて趙雲の武勇を目の当たりにし、夏侯惇は奥歯を噛み締めた。


「お前の腕は、俺も認めてやる! だが、惜しむらくは十三支ごときに味方するその了見だ! お前ほどの男なら、曹操様のもとで身を立てることも出来るというのに!」

「そんなことは望んでいない。俺は、猫族の仲間の為に尽くすまでだ!」


 裂帛(れっぱく)の気合いを雄叫びに乗せ、趙雲は夏侯惇に肉迫する。
 何合か斬り合うだけでも、僅かな油断で即死だ。互いの闘気と得物をぶつけ合う互角の戦いに、他者が入り込む余地は無い。

 が――――趙雲はその斬り合いにばかりかまけいているべきではなかった。
 曹操軍の兵士達が展開し、後から追いついた荊州兵達諸共包囲せんと動き出す。

 兵士が警告を飛ばした。


「趙雲殿! 曹操軍に周りを取り囲まれます!」


 そろそろ引き時かもしれない。
 が、まだ合図の役割を担う幽谷はこちらに現れていない。

 このまま包囲を許すか、幽谷を待たずに包囲される前に退却するか――――。
 彼の判断は早かった。

 退却する。
 兵士にそう指示を飛ばして退却せんとあっさりと背中を向けた。


「全軍! 退却だ!!」


 兵士達は頷き、転身する。包囲される前にと地を蹴った。
 それに混じらんとした趙雲はしかし、背後に風の唸りを聞いてほぼ反射的に身体を反転させ大剣を前に構える。

 刹那、幅の広い刃に当たった刃の列が趙雲の顔へ襲いかかり、左のこめかみを裂く。
 趙雲は呻き後ろに跳び退った。
 今の得物は、まさか……。
 夏侯惇を見やり、瞠目する。


「……張遼か!?」


 金髪の柔和な青年。呂布死亡以降、一切姿を見なかった人物が夏侯惇の側に立って蛇腹剣を構えていた。
 曹操軍に下っていたのか……?

 張遼は趙雲に笑いかけ、恭しく頭を下げた。

 その隣で、夏侯惇が憤懣(ふんまん)を露わに目尻をつり上げている。趙雲が逃げようとしたことが気に食わなかったのだろう。趙雲としても、諸葛亮の策が無ければ、敵を前に逃亡など以ての外だ。


「趙雲……逃げるか、卑怯者め! 獣と馴れ合い、武将の誇りを忘れたか!」


 夏侯惇が肉迫する。
 趙雲が迎え撃とうと大剣を握り直した、まさにその時。



 夏侯惇の背後に、影が落ちた。



「夏侯惇殿!」

「何――――がっ!?」


 それは玉響のこと。
 影は長い足を大きく振って夏侯惇の脇腹に叩きつけた。

 剛力の一打に夏侯惇の身体は放り投げられた小石のように吹っ飛ぶ。地面に転がり脇腹を抱えて喘いだ。


「ご無事ですか」


 獣の耳を顔の左右に持つ女性が、凪いだ無表情で趙雲を仰いだ。



.

- 51 -


[*前] | [次#]

ページ:51/220

しおり