「新野城まであとどのくらいだ?」


 馬上の夏侯惇は側に控える兵士に問いかけた。
 兵士は溌剌とした声を張り上げ、現在新野城より九十里離れた博望坡であることを告げた。

 それを聞いた、彼の右後ろに従う金髪の男――――張遼が嬉しそうに表情を輝かせた。


「そこに猫族の皆さんがいるのですね。久しぶりにお会い出来るのが、楽しみです」


 黒い目をした愛くるしい猫族の少女、そしてその側に従順に仕える赤と青の目をした美しい女性。
 二人の姿を思い浮かべ、とろけそうになる感覚を覚えた。
 けれども、こちらを不愉快そうに肩越しに睨んでくる夏侯惇に、きょとんと首を傾ける。肩から錦糸の如き髪がさらりと音を立てて流れ落ちた。


「張遼、お前はまがりなりにも副将だろう。もっと緊張感を持て」

「そういえばそうでした。暫く戦から離れていましたから、ついこの空気を忘れてしまいました」

「お前は呂布軍にいた頃からそうなんだろう。まったく、曹操軍も降将をいきなり副将に据えるとは、思い切ったことをなさる」


 不満を隠そうともせずに吐き捨てる。
 その様子を眺めながら、張遼は目を細めた。やはり、彼らはどうも……。


「六千の兵相手に十万というのも、なかなか思い切った決断でしたね」

「俺は五万で十分だと言ったのだ。賈栩が余計な口出しをしなければもう少し身軽に動けたものを」


 されど、これも曹操の決めたこと。
 頭では割り切っているものの、不満は全く隠し切れていなかった。
 張遼を睨みつけ、視線を前へと戻した。憎らしげに、十三支殲滅を呟きながら。

 張遼はすっと目を細める。その心中では、確信を得る。
 ……ああ、やはり彼らの頭に《彼女ら》がいない。
 違和感を感じたのは曹操軍に組み込まれてすぐのことだ。
 猫族のことを訊ねたところ、呂布亡き後、猫族の長劉備が金眼の力を暴走させ人間達を蹂躙したと言うが、誰もが猫族のことを憎らしげに言いながら、猫族の中に在る筈の女性、かつて張遼と同じ主人に仕えた男性、そして猫族や人間達に接触しては掻き回していた猫族の子供――――《四凶》と蔑まれた三人の名前をちっとも出さないのだ。
 敢えて何も言わずに観察していると、彼らなどまるで最初からいなかったかのように、彼らにまつわる記憶だけがごっそりと抜け落ち、代わりの記憶を植え付けられているのだと分かった。

 ややもすれば、猫族も曹操達と同じく彼らのことを忘れている可能性がある。
 いや、となれば今、色違いの目をした彼らは何処に行ってしまったのだろう。
 もしや役目を終えて消失した?

 ……恒浪牙さんなら、ご存じでしょうか。
 あの呂布すらも恐れ嫌悪する地仙の男。彼ならば念入りに記憶を操作するのも造作ないことだ。
 彼の意思が働いているということは……これは彼らの為になることなのかもしれない。

 曹操達に教えないことが、ひいては猫族の娘――――張遼が求めてやまない関羽の為になるのやも……。
 恒浪牙に話を聞くまでは四凶――――否、四霊のことは誰にも話さずにおこう。
 顎に手を添え、張遼は夏侯惇の背中を見つめた。



‡‡‡



 木漏れ日に目を細め、幽谷は手にした槍の感触を確かめた。この槍は荊州兵から拝借した物だ。安物、までは酷くはないが、業物とも言えない、《普通》の武器だ。
 使い慣れた暗器で斬り込むのではなく敢えて間合いの広い槍を使えと、周泰と恒浪牙から言われたのだ。武器の類は一通り扱えるので、それでも問題は無い。……ただ、混戦状態にでもなればこういった長柄は非常に面倒な武器ではあるが。

――――と、一羽の烏(からす)が鳴きながら幽谷へと一直線に飛んできた。
 腕を横に伸ばせば大きく羽ばたき二の腕に停まる。
 何度も鳴いて報せる烏に頷き返し、幽谷は趙雲を呼んだ。


「曹操軍が来ました。こちらには、気付いてはいません。向かうならば今かと」


 幽谷の報告に趙雲は大きく頷いた。


「よし、始めるぞ!」


 趙雲は後ろを振り返り、兵士達へと大音声をかける。
 けれども彼らは数の差に完全に怯み後込みしていた。

 青ざめて不安を吐露する兵士に、彼は笑いかける。


「案ずるな。そんなことは、俺もわかっている。もちろん、軍師殿だってな」


 そこで一度言葉を止めて兵士達を見渡した趙雲は、顔を引き締めた。武将然とした姿に、兵士達も無意識のうちに背筋を伸ばし彼に注目する。


「いいか、荊州の兵たちよ。漢の半分を手に入れた曹操がついに南に侵攻してきたんだ。この一戦はまさに、曹操軍南征の第一歩。俺たちは、その戦の先陣を切るんだ。ならばここで、出鼻をくじいてやろう! あの曹操を悔しがらせるなんて、そう出来ることではないぞ」


 強気に口角をつり上げてみせる武将に、兵士達は感じ入った。

 が、幽谷は呆れながら趙雲の名を呼ぶ。この言葉だけなら、劣勢でもなお勝とうとしている将の言葉だった。

 彼を戒めるようにじとりと見やると、彼はおどけたように肩をすくめてみせた。「といっても」何処か楽しげに言葉を続ける。


「俺たちの役目はあくまで囮。間違っても、勝ってしまわぬようにな」

「わ、わかりました! 全力でやります!」


 大剣を構える趙雲に、兵士達も武器を握り直す。引き締まった表情には、もう気後れは無く。堅い覚悟が見えた。
 ただ少し話をしただけだ。それなのに、こんなにも打って変わっている。

 心の乱れの無くなった兵士達は隊列を正し、趙雲の号令を待つ。


「全力で負ける、ですか……」

「ああ、そうだ」

「敵に看破されませんか」

「さあ、どうだろうな」


 ……。
 大丈夫だろうか。
 囮として小勢で十万の軍へ突撃するというのに、に明るく、爽やかな笑みを向ける武将に、幽谷は思わず兵士を振り返った。


「……ほどほどに、不自然でないようにお願いします」

「よし、では参ろう! みんな、派手に負けるぞ!!」


 趙雲は声を張り上げ、地を蹴った。


「……派手に負けてどうするんですか」



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