幽谷は一人、荊州兵が作った陣屋の中を歩いていた。
 猫族の安全の為、不審な兵士はいないか、曹操軍の間者が潜んでいないか見て回っているのだ。新野への道途にて一通り確認はしていたけれども、新野で紛れていないとも限らない。
 天幕の外にいる兵士達をつぶさに観察し、見極めていく。

 天幕にいる者は、時間を置いて見定めれば良い。信疑を確認した兵士の顔は覚えた。
 自分の耳に興味を持つ兵士達がこちらを興味深そうに見てくるのは、決して気分の良いものではないが、これも猫族を守る為。人間達の見せ物にされているような気分も、彼らを守る為だと思えば耐えられた。それに幸い、恐れ故か話しかけてくる者は一人としていない。

 ひとまず一度目の巡回を終え、幽谷は陣屋を出た。

 人目の無い場所まで歩き、今日立てられたばかりの柵に寄りかかって少し雲がかかった星空を仰ぐ。

 曹操軍十万が博望坡に攻め寄せるまで、あまり時間は無い。
 諸葛亮の献策を頼りに僅か六千と三百余名の猫族で相対する。

 我らが勝たなければならない。生き残る為に。
 外套の下から匕首を取り出し、柄をぎゅっと握り締める。決意を武器に込めるが如く、みし、と小さく軋むくらいに力強く。

 自分でも不思議なくらいにその使い古された匕首は手に良く馴染んでいた。
 母から渡されたそれは見覚えがあるようで、無いような気もする。自分と匕首には、何か縁があるのかもしれない。

――――そこまで考え、我に返る。
 ああ、まただわ。また記憶に思考が集中しかけてしまった。
 今はそんな場合ではない、自分のやるべきことを忘れるなと自身に言い聞かせ、緩く首を振った。

 そして顔を上げると、目の前に不審者が立っているのに反射的に匕首を構えた。
 が、それが誰か気付くなり嘆息して武器を下ろす。


「……またあなたですか」

「よお、久し振り」


 幽谷はじとりと睨むように見上げた。

 外套に身を包んだ男――――周瑜は一瞬だけ口角をつり上げた後、目を細めて幽谷の顔を見下ろした。


「月明かりだけじゃないな。顔色が随分と悪い。また記憶のことを考えてたのか」


 真摯な眼差しが、まるで叱咤しているように思えて、幽谷は反発心も覚えず視線を下に落とした。否定しようとしたが、「ん?」と遮られた。


「……そのような場合ではないと、分かってはいるのですが」


 謝罪すると、周瑜は幽谷の隣に立ち柵に寄りかかる。腕組みして先程の彼女のように星空を見上げた。


「まあ、そりゃ仕方がないが、な。今の生活はそんなに不安か?」

「いいえ、そんなことは、全く」

「なら、自分が自分じゃない気がするって?」

「……」

「図星か」


 吐息を漏らして幽谷の頭をそっと撫でた。


「思い出そうとしても戻らない記憶に今更構ったってどうにもならないんだ、どうせなら今からを覚えていけば良い。尚香もそう言ってたろ?」


 幽谷は沈黙する。

 ……確かに、言われた。
 思い出せないのは何か、封印したい理由があったからではないか、ならば無理して思い出す必要は無い。それよりも今から沢山楽しい思い出を作って埋め合わせれば良いと、優しい主人は言ってくれた。
 けれども、やはり気になってしまうのだ。
 元々、自分がどのような人間であったのか。

 狐狸一族としての《身体》を貰わなければならない程ぼろぼろになった昔の幽谷に、一体何があったのだろうか。
 嗚呼、駄目だ。やはり気になってしまう。
 こめかみを押さえて僅かに身体を前に傾かせると、周瑜が肩を掴んで引き上げる。


「あんまり悩んでると、周泰が心配するぞ。ああ見えて過保護なんだよ、あいつ」

「そこは、分かっているつもりです」

「なら、な?」


 顔を覗き込み、宥め賺(すか)すように微笑まれる。
 幽谷は片目を眇めた。拳を握って殴らんと振ると周瑜は驚いて回避した。


「今の流れで殴るのか!?」

「あなたに宥められるなど人生の汚点です。この記憶は消したく思います」

「おいおい……人が折角――――」


 ぬらり。
 それは唐突に周瑜の首に当てられた。

 周瑜の顔がひきつり、青ざめる。口端が痙攣した。

 それを間近で見ていた幽谷はぐいと手を引かれて抱え込まれるように周瑜から話された。


「兄さん……」

「……周瑜」


 見上げれば、眉間に皺を寄せた兄が。周瑜を冷たく睨めつけて《掌の上に》炎を揺らめかせていた。
 長身から放たれる厖大(ぼうだい)な殺気に、周瑜が慌てふためいた声を上げて弁解する。


「ちょ、そこまでするのか!?」

「今すぐ消えろ。さもなくば殺す」

「妹のことになると親友まで殺すって、何処まで過保護なんだよお前は……」


 幽谷を背中に庇い、周泰は自称親友を蔑視する。

 周瑜は呆れた風情で彼を見、後頭部を掻いた。降参するように両手を挙げて苦笑をこぼす。
 かと思えば、ふと真顔になって陣屋を振り返った。


「見たところ兵士は六千程度だな。大丈夫なのか?」


 周泰は陣屋を見やり、周瑜を一瞥する。


「問題は無い。お前も考えるだろうものだった」

「そうか。……まあ、お前らがいるんだ、どんな策でもどうにかなるだろうがな。だが……猫族の為に無茶はしてくれるなよ。こっちにもお前らの無事を願ってる奴は大勢いるんだ。それは忘れるな」


 周泰は分かっているとでも言わんばかりに鼻を鳴らして背を向けた。幽谷の腕をしっかりと掴んで歩き出す。


「あのお方をお一人にするなと前にも言った筈だ」


 咎めるように厳しく言う周泰に、幽谷は周瑜を振り返る。
 彼は親指を立てて右を示した。

 そちらに視線をやれば、樹木の影に隠れる人間が一人。外套で全身を覆い隠した姿でも、こちらに片手を挙げて見せる彼が誰であるのか幽谷にはすぐに分かった。
 周泰も、周瑜から幽谷を離しつつ、さり気なく彼のもとへと近付いていく。

 近くを通り過ぎざま、兄弟揃って頭を下げた。

 すると、


「無茶はするな」


 静かな声で、彼はそう言った。



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