周泰は凪いだ表情のまま、諸葛亮を見つめて言葉を続けた。


「今回十万の兵を率いる夏侯惇は曹操軍の中でも筆頭の歴戦の雄。経験の豊富さに加え、兵法にも明るい。彼ならば地形や兵の動きから誘導のさなかに看破されるのではないのか。幽谷が刺激したとて、看破されては意味も無い」


 これでは大きな不安が残る。
 何を後押しにするのか、兄は珍しく流暢に問いかけた。

 彼の言葉に、諸葛亮は口角をつり上げた。含みのある笑みを浮かべてやおら首肯した。


「そうだな。その可能性は勿論ある。……《さすが》と言うべきか」


 ……彼には、兄が呉の武将であることなどすでに知られているのかもしれない。
 幽谷は片目を眇めて周泰を見上げた。

 周泰はぴくりと眉を震わせる。が、それも一瞬のこと。幽谷しか気付かないような一瞬の変化だ。
 何も気付いていない、さらりとした顔で長を見、


「猫族に関することは、事前に多少なりとも調べていた故にな。猫族にとっての脅威について無知では、守ることもままならぬ。……策や如何に」


 静かに促す周泰に、諸葛亮は目を伏せて応じる。


「周泰、お前に役目を与えていないのはこちらに当てる為だ。趙雲達に加えもうひとつ囮を用意する。夏侯惇が思わず冷静さを失くすような囮をな」

「もうひとつ? 夏侯惇が冷静さを失くすような囮を?」


 諸葛亮は真摯な表情の劉備を見下ろし、彼の名を告げた。

 猫族が反発に色めき立ったのは言うまでもないことである。
 皆が皆血相を変えて諸葛亮を怒鳴りつけた。

 けれども、諸葛亮はそれらを流し、


「官渡の戦いで、袁紹軍を乗っ取った劉備様が再び戦場に出てきたとなれば、夏侯惇は放っておくわけにはいかない。なにがなんでも追ってくるだろう」

「ふざけんなっ! そんなんで劉備を戦場に出せってのか!」

「無論、その為に周泰には劉備様の護衛についてもらう」

「話にならない! 戦場に出すこと自体問題だよ、そんなことボクたちが許すわけないだろう!」

「そうよ。劉備を危険な目に遭わすわけにはいかないわ!」

「――――劉備様本人の希望でもか?」


 え、と関羽が掠れた声を漏らす。一斉に視線が劉備に集まった。

 数百の視線を受けた劉備は真摯な表情で首肯し、眦を決して背筋を伸ばした。一対の金の瞳に宿った覚悟は、強く猫族達を射抜く。


「……みんな、どうか僕にやらせてほしい。今まで僕は、みんなに任せてばかりだった。でも、これからは僕も一緒に戦いたいんだ」


 僕に出来る役目があるというのなら、是非やらせてほしい。
 懇願にも似た決意の言葉だ。

 揺るがぬ姿勢に猫族達もたじろぎ言葉を失った。皆承伏しかねるような顔を浮かべ、逡巡していた。

 ややあって、不安に眦を下げた関羽が彼に歩み寄り、双肩に手を置いた。


「劉備、あなたに危ないことはさせたくないの。勿論周泰のことを信用していないわけじゃないわ。でも、わたしは反対よ」

「劉備様は、覚悟を示された。その主君の思いを踏みにじるのがお前の義なのか? 主君の覚悟をくみ取るのも、臣下の務め。ここは、劉備様にお願いするべきだ」


 関羽はきっと諸葛亮を睨め上げた。
 どうしても危険な戦に大切な劉備を出したくないのだ。長が傷つけば、猫族の皆が辛い思いをする。今まで大事に大事に育てて見守ってきたからこそ、そして官渡にて人間達の憎悪を受ける身となり最も苦しい重荷を背負った彼だからこそ、もう苦しませたくはないのだろう。

 それならと、幽谷は諸葛亮に申し出た。


「なれば、趙雲殿と誘導する際に私は長に合流し、後は護衛致します。私と兄がつけば、万が一のことは起こらぬとは存じますが」


 諸葛亮が答えを返す前に、劉備はやんわりと断った。申し訳なさそうな微笑みを浮かべて。


「そこまでしてくれる必要は無いよ。みんな、心配してくれてありがとう……。でもね、僕はもう守られるだけなのは嫌なんだ」


 自分も皆と共に成長したい。
 己の願いを縋るように告げ、関羽の手を離した。
 その目は、諸葛亮に国を作りたいと、告げたあの夜の目と全く同じだ。その力強い強固な目を以て一族を見渡す。猫族の為長として進むべき道を選んだ彼は、猫族の甘い優しさをやんわりと拒んだ。一人の長として、そこに一人、立つ。

 暫しその場には沈黙が横たわった。

 劉備は曲げぬ意志を背筋を伸ばした身体全体で表し、凛然と、泰然と彼らの答えを待つ。

 諸葛亮も瞑目し、その時を待った。

――――やがて、


「わかったわ、劉備」


 関羽は劉備の前に屈み込み、真っ直ぐに劉備の双眸を見据えた。


「本当はあなたを行かせたくない。でも、頭ごなしにあなたの意志を認めないのはもっと嫌なの……」


 本心の混じった了承に、劉備は安堵したように微笑んだ。吐息を漏らしながら囁くように謝辞を口にする。

 関羽は力強く頷いて、諸葛亮を見上げた。
 そして一つだけ――――自分も劉備と共に囮役に当てるように願い出た。それが、彼女なりの譲歩だったのである。


「ボクも劉備様の意志は尊重したいです、だから、せめて彼女が劉備様と一緒いてくれたらって思います。……勿論、幽谷達を信用していないわけじゃないけど」


 ちらり、蘇双がばつが悪そうに周泰と幽谷を見やる。

 それが猫族ではないこちらに気を遣っているからであると判断した幽谷は、かぶりを左右に振った。


「問題ありません。長の安全を期す為に部外者を信用しないのは、当然の心理です。私共に気を遣われる必要はございません」

「……」

「あの、幽谷。だから違うのよ?」

「?」


 蘇双は眉間に皺を寄せてじとりと幽谷を睨めつける。

 その瞳に込められた意図が分からず、幽谷は首を傾けた。
 すると、周泰が幽谷の頭を撫でながら、「なれば俺が予山の兵を」と話題を戻す。

 諸葛亮はそれを落としどころと見て即座に了承した。


「張飛、予山は周泰が担当することとなる。良いな?」

「ああ、いいぜ。息が合うかは不安だけど、まあそこはこっちで何とかするよ。姉貴、オレのことは気にすんな。それより、劉備を頼んだぜ」

「ありがとう、張飛……周泰も、ごめんなさい」


 周泰は頷いた。


「では劉備様と関羽は、共に後陣にいてもらう。趙雲達が曹操軍を連れて逃げてきたら合流し更に奥へ逃げ、件の地へ誘導する。幽谷は合流した際状況に応じて劉備様の護衛に加わるか趙雲と共に追撃するか判断しろ。後は先ほど説明した流れと一緒だ」


 諸葛亮は、戦場には出ない。彼は新野城に赴くこととなる。
 これもまた顰蹙(ひんしゅく)を買ったようだが、やはり何処吹く風、さして気にもしていなかった。

 戦の準備に入れと冷たく命じる彼に、猫族は多少の不満を残しつつ従って集会所を出て行く。蘇双などは露骨に諸葛亮を睨んでいた。こんな状態で、諸葛亮は良いのだろうか?
 思案に耽る諸葛亮を眺めながら眉根を寄せていると、張飛が周泰に歩み寄ってきた。


「周泰、さっきは殴っちまってごめんな」

「構わぬ」

「……ありがとな。で……あれの後に頼むのもあれだけどさ……今からちょっと手合わせしてくんね? 軽くで良いからさ」


 周泰は求めに応じ、幽谷の肩を叩いて張飛と共に集会所を出て行った。

 趙雲もそこでようやっと動くようだ。


「では、俺は新野城へ行ってくる」

「……お気を付けて」


 拱手すると、彼は幽谷に笑いかけ、颯爽と歩き出した。

 壁際に一人立つ幽谷は、趙雲の背中を見送りながら、今までの会話を思い出す。
 ……戦、か。何の感慨も無く呟いた。

 外套の下に潜ませた暗器の数々を撫でながら、幽谷は視線を床に落とした。
 実のところ、戦に出るのは初めてだ。だが、そんな気は全くしていない。
 失われた記憶の中に、その経験があるのかもしれない。だから戦だから人を殺めるという行為を《常識》と認識している。それにさしたる恐れも躊躇も無い。

 失われた記憶……その中で《幽谷》は、一体何をして、誰と共に生きていたのだろうか。
 戦を恐れない――――それはつまり、もう慣れてしまった程に自分の手は血で汚れているということなのだろうか。

 知りたい。
 分からないと、自分という自我すら疑ってしまう。
 本当に、今の自分は《幽谷》なのか、どうなのか。
 いや、元々が《幽谷》であったのかも分からないのだから、自分自身存在すらもあやふやに思えることもある。

 誰か……過去の《幽谷》を知る人はいないのだろうか。
 いるのならば、失った記憶の全てを取り戻したい。
 そうすれば、本来の自分を取り戻せるような、そんな気がする――――。


「幽谷?」

「!」


 はっと顔を上げると、関羽と劉備がこちらを心配そうにこちらを見ていた。
 いつの間にか頭に手をやっていたようで、頭が痛いのかとこちらに歩み寄ろうとするのを咄嗟に取り繕ってその場から逃げた。



 今は自分のことなどどうでも良いのだ。
 母の命を遂行することに重きを置かなければ。



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