奥からゆっくりと歩いて来たのは劉備だ。

 張飛は周泰達から離れて彼に向き直る。
 周泰は申し訳なさそうにする劉備へと拱手した。


「ごめんね、周泰。痛かっただろう」

「お気になさらず」


 幽谷の手を引いて元いた場所に戻る。心配した幽谷が顔を覗き込もうとすると、遮るように頭を撫でられた。

 趙雲の隣に二人が並んだのを認め、劉備は唖然とする猫族達に向き直る。


「みんな、どうか僕の話を聞いてほしい」

「劉備様!」


 劉備は蘇双に一瞬だけ笑いかけた。次の瞬間には幼い顔を引き締めて背筋を伸ばした。


「本来の僕でみんなと会うのはあの日以来だね。僕たちが村を追われ、みんなで南を目指そうと、そう決意した、あの日……あれから僕たちは荊州に迎えられ、そして、僕は諸葛亮に会った」


 そこで彼は一呼吸置いた。瞑目して沈黙し、口を開くと共に瞼を上げる。
 彼は諸葛亮と夜の中に話したことを、漠然と語った。
 そうして、諸葛亮への疑念に満ちた彼らに乞うように言うのだ。諸葛亮のことを、信じて欲しいと。


「彼は僕たちにない力を持ち、僕たちに見えないものを見ることが出来る。そのひとつが戦のこと。彼の力は本物だ。それは僕が保証する。だからどうかみんなの力を、僕と諸葛亮に貸してほしい……!」


 劉備はその場に座り込み、床に額を着けんばかりに身体を折り曲げた。
 族長が頭を下げるという甚(はなは)だ慮外(りょがい)な光景に猫族達は一様に青ざめた。


「劉備様! そんな、オレらに頭なんか下げないでください!!」

「そうです! やめて下さい!」


 けれども、劉備は頭を下げない。その頑なさは、彼の中にある決意の現れだった。懸命に選んだ険しい道を、しかし彼は猫族の長として彼らを導きながら歩いていこうとしている。限界を知らぬ知嚢(ちのう)を持つ龍の力を借りて。
 並の覚悟でこの選択をしたのでは決してないのだった。


「劉備様、頭を上げて下さい。私のために、長であるあなたが頭を下げるなど……」

「長だからだよ……! 僕はみんなを守りたいんだ。そのためならなんだって……!」


 感じ入った風情で、趙雲が彼の名を呟く。
 必死に額を床に着け続ける長に、猫族達は口を閉ざした。互いの顔を見合わせ、困惑している。

 そんな中、最初に声を上げたのは張飛である。


「……わかったぜ、劉備。オマエがそこまで言うなら、オレは協力する」

「張飛……」

「でも勘違いすんなよ。コイツのこと信用したわけじゃねーから」


 頭を上げて目を見開く劉備に笑いかけた張飛はしかし、すげなく諸葛亮を睨む、劉備の為に折れてやった、そんな態度である。


「……張飛の言うとおりです。ボクたちは諸葛亮を信じるわけじゃない。諸葛亮を信じるという劉備様を信じるだけ」


 蘇双の言葉もまた、冷ややかなものだ。
 されど諸葛亮はそれでも満足そうに口角をつり上げる。


「それで十分だ」

「俺も異論はない。僅かなりとも可能性があるというのなら軍師殿の策にのろう」

「僅かではない。必ず勝たせる」


 諸葛亮は断じる。驕りでも虚勢でもない。己に対する絶対的な自信に裏付けされた、力強い断言だった。

 その姿に、猫族達もようやっと、決して好意的ではないものの協力する意思を見せる。他でもない、大切な長の為に。
 全員の意思を確かめてから、諸葛亮は説明を始めた。


「敵はまっすぐ新野城を目指してくるはずだ。奴らは、猫族が劉表様から新野の地を賜(たまわ)ったという情報しか、持っていないはずだからな」


 実際、猫族が村を作ったのは新野城から九十里も離れた博望坡。
 それを、最大限に生かすのだと、諸葛亮は語る。


「曹操軍を待ち伏せするのか」

「そうだ。敵もよもや六千の兵しか持たぬ我々が十万相手に、仕掛けてこようとは思うまい。その隙を突き、罠に嵌める」

「罠?」

「まずはじめに趙雲、お前には一千の兵を率い敵軍に真正面から当たってもらう」


 ……囮だ。
 待ち伏せの地点まで上手く敵を誘導する、最も危険な役割を、趙雲に任せるつもりなのだ。

 ここ博望坡で暮らす間に何度か手合わせをしたが、趙雲は相当な手練れだ。下手を打つ心配はまず無いだろう。
 ……が、


「先陣か。承知した。一千の兵で十万の大軍に突っ込むとはなかなかに熱くなるな」


――――何となく、勝つ気でいるような気がするのは、気の所為だろうか。


「そんな。いくら趙雲でも危険なんじゃ……」

「ただし、これは囮だ。趙雲、お前の仕事は上手く負けること。囮と悟られず、追撃させなければならない」

「なるほど、勝ってはならないわけか」

「勝つつもりだったの!?」

「はは、そりゃ戦う以上はな。だが、今回の役目は囮らしい。いいだろう、せいぜい無様に負けてみせるさ!」


 剛胆と言えば響きは良いだろうが、無謀である。
 彼らは四霊や狐狸一族のように術の類は使えない。百倍の兵を相手にすれば、確実に全滅する。
 少しだけ、彼の精神を疑った。


「幽谷。お前は時を見計らって趙雲と合流し、共に囮の任に付け。見慣れぬ容姿のお前なら、曹操軍の意識を少しくらいは引きつけられるだろう」

「分かりました」


 こちらも、重要な任、か。
 拱手して了承すると、趙雲が口を挟んだ。


「安心して良い。幽谷を危険に晒すようなことは無いよ」

「それは助かる。猫族にとって、狐狸一族の周泰と幽谷は切り札だからな。期待しているぞ」


 諸葛亮の単調な激励の言葉に趙雲は大きく頷いた。……その自信は、何処から来るのだろうか。


「囮ってことは、どっかに曹操軍を誘い込むのか?」

「そうだ。博望坡の正面より新野城に向かって四十里ほど、山と川が迫り、両側に樹木と葦が生い茂る場所がある。関定と蘇双には、他の猫族を率いこの場所に火計を仕掛けてもらう」

「火計? 誘い込んだ曹操軍を火で攻撃するってこと?」

「その通り。燃えやすい葦にさらに油を撒き、一気に敵を火中に包む。そこから趙雲は、すぐさま反撃に転ずる。突然の火と攻撃に、敵は退却せざるを得ない。今度は逆に、趙雲と幽谷が曹操軍を追撃するんだ」

「わかった。火中での戦いとなるな。幽谷、やれるか?」

「問題ありません」


 火中であろうとなかろうと関係ない。力を使えば自然に四霊は害されない。
 幽谷が頷くのに趙雲は笑み、頷き返した。


「最後に、関羽と張飛はそれぞれ千人の兵を率い、博望坡左手の予山と右手の安林に潜んでいてもらう」

「千人の兵を!?」

「そんな数の兵をオレらが率いるって言うのかよ! 猫族より多いぜ! 無茶だろ!」

「人がいないんだ。やってもらわねば困る。お前たちはこれまで、散々実戦を積んできた。無茶だなんだの言う前にやってみせろ」


 張飛は暫し沈黙したかと思うと片手で乱暴に頭を掻く。諦めたように了承の意を示した。
 関羽、張飛両名の軍は転身し逃げ出す曹操軍の両側から急襲する。

 これが、諸葛亮の策の全貌である。

 されど、


「……その策、敵の総大将には通じないのではないのか」


 不意に、周泰が水を差した。



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