13
諸葛亮の部屋を出ると恒浪牙はあっさりと自分の部屋へと戻っていった。彼曰く、『老体に夜更かしはキツい』そうで。天仙なのだから老体だとか老い耄れだとか、身体的な衰弱は無いと思うのだけれど……随分と人間臭い奇妙な仙人もいたものだ。
それとも仙人という者は実は皆そうなのだろうか。
幽谷は恒浪牙以外に仙人を見たことが無い。だから母から伝え聞いた話で想像するしか無いのだった。
恒浪牙が一般的な仙人だとは思えないが、仙人の世界では人の世界の常識は捨てるべきであると言われている。恒浪牙が《普通》であることも十分有り得る。
今度、長兄に聞いてみようと思いながら恒浪牙を見送った幽谷は、跳躍して軽々と屋根の上に乗り上げた。靴を脱ぎ手に持って屋根伝いに歩く。
劉表が怪しい行動に出れば即座に対処出来るように、見回りをするのだ。
周泰も宴が終わればきっとそうする筈。先んじて見回りに付いても咎められはしない。
怪しい気配は決して逃すまいと、濃密な闇に目を凝らして屋根の上を歩く。
城の中を行き交うのは基本的に女中だ。宴への酒や料理の補充に加え、三百人以上の猫族の部屋を整えなければならない。女中がどれだけいるのか分からぬが、大層大忙しであろう。劉表に仕える手伝う気は毛頭無いが。
女中も、客人に無礼の無きようにと慇懃(いんぎん)な態度を保っているが、宴の場を離れたこの場所では嫌悪や恐怖に顔は歪んでしまっている。折角化粧を施したかんばせも、醜く感じる。
恐らくは劉表や劉キの話を全く信じていないのだろう。否、信じたくないのが正直な心情か。
人間は、つくづく愚かだ。
今もなお漢帝国の作った嘘を真実として真の英雄の子孫を排他しようとする。呆れて物も言えない。
金眼を討ち滅ぼした人物が猫族の長、劉備の先祖だと知った時、彼らはどのような態度を取るのか……。
回廊を早足に過ぎ去る若い女中を見送りながら、幽谷は片目を眇めた。
‡‡‡
深夜。
宴も終わり、猫族達もあてがわれた部屋で旅の疲れにどっぷりと深い眠りに沈んでいる時間帯。
その頃になっても、幽谷は城の動きを監視し続けた。
周泰は劉表の私室周辺を請け負っている。今日は休めと言われたが、疲れているのは周泰も同じこと、兄に働かせて自分はのうのうと眠るなんて以ての外であるとこれを堅く拒んだ。何度かの押し問答の果てに兄は折れたが、少しでも眠くなったら仮眠を取るようにと約束させられてしまった。
本当に大丈夫なのだけれど……吐息混じりに独白し、庭に降りる。周囲を見渡して歩いた。
と、廊下を歩く足音に瞬時に反応して屋根に跳び乗る。
気配を殺して足音の主を捜すと、暗闇からぼうっと浮かび上がったのは白だ。小さく純真な影。
それに吐息をこぼして幽谷は屋根から飛び降りた。庭に着地して廊下に上がれば、白の影も幽谷に気が付いて足を止めた。
「君は……まだ起きていたのかい?」
「猫族をお守りするのが役目故に」
拱手してその場に片膝を付くと白の影の劉備は苦笑を浮かべて足を動かす。
幽谷の前に立つと彼女に立ち上がるように言った。
命令であると判断して起立すれば、
「この僕で会うのは、初めて……だね。初めまして。猫族の護衛をしてくれて、ありがとう。勿論、世平の遺骨を連れてきたことも」
「いえ」
礼を言われるようなことではない――――そう言おうとして、張飛との問答を思い出す、似たようなことになるかと危惧して開きかけた口を閉じた。
「どちらに向かわれるのですか」
「諸葛亮と話がしたくてね。今から彼の部屋に行こうと思うんだ」
「では、私もご同行致します」
一人で夜中の城を歩くのは危ないし、関羽が心配する。
そう言うと、劉備は弱々しい笑みを浮かべた。何故だろうか、関羽が心配、のところで反応があったように思う。
「……そうだね。ありがとう。でも大丈夫なのかい? 君達は今までの旅路でもほとんど休めていない筈だ。このまま休まずにいるのは……」
「私達のことはどうか、お気になさらず」
「けれど、休める時にちゃんと休んだ方が良い」
「では、折を見てそのように」
「うん」
今ではないのかと、滲んだ苦笑はそう言っている。
けども猫族の長がたった一人で夜の、猫族を追い出した黒幕の城を歩き回るなど見過ごせない。見つけた以上はきっちりと護衛するつもりだ。いや、しなければならない。
幽谷が譲らないと悟った彼は、困り顔で「じゃあ、行こうか」と歩き出した。
「幽谷。諸葛亮の部屋での会話は、なるべくなら誰にも言わないで欲しいな。勿論、周泰や恒浪牙殿なら問題は無いよ。口止めをしてくれれば他言はしてくれないと分かっているから。けれど、猫族の皆にはまだ聞かれたくないんだ。僕の願いが聞き届けられるか、まだ分からないから」
「長がそう望まれるのであれば」
「うん。ありがとう」
幽谷にこりと笑いかけ、劉備は金の目を細めた。
美しい澄んだ金の瞳は何処か、悲しげで寂しそうに揺らいでいた。
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