1
かくして猫族の新野の暮らしは始まった。
新野の北東、博望坡。
人間達から距離を取ったこの土地でひっそりとした村を築き、人間達との軋轢無く平穏な日々を過ごしている。
このままこの平和が続けば――――それは誰しもが願うこと。……何も知らぬ、猫族達だけの願い。
曹操の侵攻は依然として憶測の域を出ない。だが、それを知るだけでも不安に駆られてしまう。
関羽がそうだ。
劉備達の前でこそ笑っているけれど、ふとした時に懸念に顔が陰ることがある。
諸葛亮にも何か考えがあって、敢えて内密にしているのだろう。
だが、それでも関羽は納得しきれていない。諸葛亮が多くを語らないから、それに対する反発心もあるのだろう。
恒浪牙や周泰は諸葛亮の意思を汲んでいるようだけれど……。
「どうした、幽谷」
「……いえ」
主の劉備に様々な知識を授ける諸葛亮の怪訝そうな視線を受け、幽谷は思案を中断する。かぶりを左右に振って謝罪と共に頭を下げる。
この村に落ち着いてから、幽谷は頓(とみ)に諸葛亮の側にいることが多くなった。
周泰は劉備の護衛、そして新野に預けた兵士達の様子見を担っているので、諸葛亮の指示に臨機応変に従えるのは彼女だけだった。
が、今のところは何の指示も無く、ただ諸葛亮の自宅で時を過ごしつつ、ままに劉備の相手をする毎日だ。
勿論四六時中という訳ではなく主に朝から昼まで。夕方になれば村とその付近の見回りである。ままに誰かと手合わせをすることもある。
空の色を確認しようと窓へと首を巡らせた幽谷は、そこで外に人の気配を察知し腰を上げた。足早に引き戸の方へ向かい、戸を開く。
と、関羽が驚いて瞠目し固まっていた。その後ろには関定と蘇双の姿もあった。
拱手すると、我に返って家の中を覗き込む。
「ごめんなさい。劉備いる?」
「はい。長ならば――――」
「ここだよー」
劉備の声が奥から聞こえる。
幽谷は脇に退き、三人を招き入れた。二人がいる場所へと案内する、これも、ほぼ毎日の幽谷の役目となっていた。
「失礼するわ。劉備、また諸葛亮のところで遊んでたのね」
劉備の側に腰を下ろした関羽の後ろで、不信感を露わに蘇双が諸葛亮を見た。
「劉備様、どうしてこう毎日毎日諸葛亮のところに行くんですか?」
「だってね、諸葛亮はなんでも知ってるんだよ! 今日はね、どうしてお星様が夜しか見れないのか、おしえてもらったの!」
「ええ! 何それ、スゴイ!」
「関定!」
食いついた関定に蘇双が叱責を飛ばす。
「諸葛亮、その、ごめんなさい。劉備がお邪魔しちゃって」
「何を謝っている。主君の訪れを迷惑に思うほど、私は不忠ではないさ」
「そういうつもりで言ったわけじゃ……」
む、と口を噤んで視線を逸らす関羽に、諸葛亮は嘆息を漏らした。鬱陶しげに関羽を見据え、冷淡な声をかける。
「それにしても、お前は少し劉備様に対して過保護すぎるな。ほんの数刻姿を見ぬだけで落ち着きをなくす」
「過保護だなんて、そんなつもりは……。今まで、ずっと一緒に暮らしてきてこれまでと何も……変わってないわ」
「ふむ。劉備様は変わろうとされているのにか」
関羽は瞠目する。
「甘やかすばかりが家臣の務めではないぞ」
諭すように単調な声音で咎める彼に、蘇双も反発心を覚えたらしい。眉間に一瞬だけ皺を寄せて、
「アンタに何がわかるのさ」
刺々しく言い放つ。
諸葛亮に対しての不信感は、猫族全体でも少なからずある。蘇双はその筆頭とも言える。ほぼ最初から諸葛亮を信用していなかった。
それが猫族を思うが為の疑心であると、諸葛亮も分かっていた。だからこそ、平然とした涼しいかんばせで猫族の疑念を受け止めているのだろう。
されども、長たる劉備は諸葛亮には絶大の信頼を向けているようで。
くいくいと諸葛亮の袖を引いて注意を引いた。
「ねーねー、諸葛亮。かしんって、どういうこと?」
「劉備……」
「劉備様。それは、私があなたにお仕えしているということですよ。もちろん、この者たちも」
劉備はこてんと可愛らしく首を傾げた。
「おつかえ? いっしょに遊んでくれるってこと?」
「楽しく共に遊ぶだけでは駄目です。すべてはあなたのためでなければならない。そのためには、時に非常になることも必要です」
劉備は思案するような素振りを見せて沈黙。
暫くして、「よくわかんないや」と。
関羽は困惑するようにその様子を眺めている。
関羽が劉備を甘やかす傾向にあるのは、幽谷でも感じていることだった。いや、甘やかすと言うよりは関羽が劉備に依存しているようにも思える節がある。
劉備は長としてその役目を全うしようとしている。
されど関羽にとっては、いつまでも劉備は目が離せない幼い弟のように思えてしまうのかもしれない。
ふと、幽谷は疑問に思う。
劉備は変わろうとしている。
そんな彼は、関羽の過保護さをどう思っているのだろうか。迷惑だとは決して思っていないだろうけれど……。
「どうした。いつまでも馬鹿面で突っ立っていられるとこちらも気が散るのだが」
諸葛亮の言葉にはっと思案を中断する。が、言われたのは自分ではなく関羽だった。我に返って謝罪する彼女は、何かを言おうとして言えないでいるようで、そわそわとしていた。
諸葛亮が不愉快そうに目を細める。声にも苛立ちが混じった。
「なんだ、言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「え? えっと、その……そうそ……」
「それ以上は言うな」
「ええっ!?」
関羽の言葉を遮った諸葛亮視線を鋭くして関羽を見据える。
関羽は鼻白んだが、視線を逸らし、目を伏せて溜息を漏らした。
「わかった……他で話しましょう」
また、溜息。今度は関羽ではなく諸葛亮だ。
「……まったく、面倒な女だ」
ぼやくように言い、劉備に向き直る。用事が出来たとの旨を話せば、聞き分けよく家に戻ると腰を上げた。
「あ、でもね。諸葛亮。関羽と仲良くしなきゃダメだからね」
「りゅ、劉備……」
「承知しております、劉備様。私たちはとても仲良しですよ」
さらりと返した彼を関羽がぎょっと見る。嘘だ、なんて心の声が聞こえてきそうだ。
が、幽谷でも諸葛亮の言葉には、よしや劉備を安堵させる為の嘘でも同意しかねた。
「そうなんだ。よかったー」
嘘だと気付かない劉備はほわりと笑う。関羽と諸葛亮を交互に見、満足そうに頷いた。
幽谷が護衛をしよう立つが諸葛亮に止められる。諸葛亮自身の懐を押さえられ、《あの話》がまだ終わっていないこと暗にを伝えられた。
彼の指示に従うと関定達が劉備についていくと申し出てくれた。それにほっと安堵する。
「外までお送り致します」
「ああ、ありがとな」
「いえ。諸葛亮殿、すぐ戻ります故に」
「ああ」
諸葛亮達に拱手して、幽谷は関定達と共に部屋を出た。
――――が、部屋を出た後に不安が芽吹く。
……あの二人をあのままにして良かったのかしら。
.
- 44 -
[*前] | [次#]
ページ:44/220
しおり
←