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「まさか先生が猫族の軍師になられるとはのぉ」


 私があれだけ言っても聞き入れてくれなかったものを……。
 心底名残惜しげに、劉表はぼやいた。

 猫族の見送りに出た劉表に対するのは、諸葛亮と幽谷、そして周泰のみ。猫族も恒浪牙も、すでに新野へと向かっていた。振り返れば、まだ後方は確認出来る。だが、あまり長居は出来ない。

 静かに拱手する諸葛亮を見、劉表は目を細めて笑い顔の皺を深めた。


「いや、これも未練じゃな。先生がこうして世に出てくれただけでも喜ばしいことじゃ」

「申し訳ありません。劉表様。しかし、私が猫族と共に新野に赴くことは劉表様にとっても、良いことではありませんか」


 一瞬、劉表の顔が強ばった。言葉に詰まって視線をさまよわせた後、目を伏せてやおら首肯する。


「先生には、何もかもお見通しであろう。私は、軽蔑されるじゃろうな」

「そのようなことはありません。劉表様のお考えは、荊州の太守として当然でありましょう。他の者がどう受け止めようと、私が劉表様を軽蔑するようなことはありません」

「そうか……先生に、そう言ってもらえると、いくらかは心なぐさめられるというもの。先生。新野のこと、猫族のこと、どうかよろしくお頼みする」


 諸葛亮は恭しくこれを了承した。
 けれども、それに関して六千の兵を求める。新野を考えての数字であろうが、曹操を迎え撃つにしては少々、いや非常に心許ない数字だ。
 劉表はこれを快く了承した。兵士に指示を出し、早急な準備を促した。


「ありがとうございます。それでは、これで」

「うむ。先生も、壮健でな」


 諸葛亮に目配せされ、幽谷は無言で馬を引き寄せる。手綱も持たず片手を上げるだけで従う馬の姿に、劉表が驚嘆の吐息をこぼす。


「これが、かの神の一族の御力か……」

「……」


 本当は違うのだが、何も言わずに諸葛亮の前に立たせる。
 諸葛亮は幽谷に礼を言って乗馬した。手綱を持ち馬を軽く走らせる。

 それに、幽谷も周泰もほぼ同時に駆け出した。揃って劉表への挨拶は無い。する必要も無かった。

 馬と並ぶ程度の速度で走り、二人は諸葛亮と共に猫族達と合流する。



‡‡‡




 暫く歩けば、林に入った。
 狭く蛇行した道を、猫族は列を乱さずに歩く。

 そんな中、


「ねぇ、あの人間が本当にボクたちの軍師になるの?」


 蘇双が前方を見やって不思議そうに関羽に問いかけた。
 そちらには、恒浪牙と何かを話している諸葛亮がいる。
 その前には、足の悪い者や老人などを乗せた馬を率いている周泰に肩車された劉備がいた。

 幽谷は、張飛の横を歩きながら時折寄ってくる鳥や小動物達の相手をしていた。ままに鷹や鷲まで来るから、その度に関定が慌てふためくので、虎などが来ないように気を配るのも、彼を宥めるのも大変だった。


「ええ、そうよ。とっても凄い人らしいのよ」

「とってもスゴイ人って、すげぇ、大雑把な情報だなぁ。具体的にどうスゴイんだよ?」

「そ、それは、えーと……幽谷!」

「え」


 そこで、唐突に助けを求められても。
 幽谷はちょい、と外套を引いてくる関羽に困惑しつつも、関定達の視線を受けて口を開いた。


「諸葛亮殿は世の情勢には鋭敏であり、これは私の勝手な印象に過ぎませぬが、知略の底も果てが無いと言っても過言でない方であると存じます。かの荊州太守が『先生』と呼び親しまれるのも、恐らくは彼の叡智に対する敬意の現れかと」

「なるほど。つまりすんげぇ頭良い奴ってことか」

「はい」


 幽谷は首肯し、関羽を振り返る。彼女はほっと胸を撫で降ろして安堵していた。


「てーか、そもそもどうして軍師がいるんだよ? オレらは新野ってとこに行って、新しい村で暮らすだけだろ? また、戦うってのかよ?」


 後ろでうっと声がした。


「それに諸葛亮って、再三にわたって劉表様から誘いを受けてたのに、ずっと断ってたんでしょ? そんな人がどうしてこんなにあっさりボクたちの軍師を引き受けるのさ。怪しいにもほどがあるよ」

「それは……」


 関羽も幽谷も、諸葛亮に堅く口止めされている。恐らくは劉備の望みも、その範囲内だろう。
 このまま関羽が黙っていられるか……嘘はとても苦手そうだし、時が来るまであの秘密を胸中に留めておけるだろうか。


「確かに不可解な点はあるな。それに、俺はこの兵士たちのことも気になるのだが」


 関羽の隣を歩く趙雲が後ろを振り向く。
 そこには距離を取って猫族に続く荊州兵がいた。整然と並んで行軍する様は非常に物々しい。不安と疑念を抱かせるには十分だ。


「これって、新野では六千もの兵が必要になるってことかよ。でも、いったい誰が攻めてくるっていうんだ?」


 幽谷は関羽の様子を窺う。そして、隻眼を目を細めた。

 彼女は迷っている。猫族の為にも、曹操が攻めてくるかもしれないと言う恐れを言った方が良いのではないかと、口を開閉させて逡巡している。このままでは言ってしまいそうだ。

 阻もうと彼女を呼ぼうと口を開いた。

――――が、《彼》はそれよりも早く気付いていた。


「関羽」

「は、はいっ!?」


 諸葛亮である。
 ぴんと背筋を伸ばした関羽は戦慄顔で幽谷の側に立った諸葛亮を見やった。ああ、なんて眼光が鋭い。


「すまぬが、少しつきあってもらえないか。相談すべき事がある」

「う……」


 関羽が縋るような目を幽谷に向けてくる。
 ……が、諸葛亮に肩を叩かれ牽制される幽谷には何も出来なかった。

 諸葛亮に続いて、戦々恐々とする関羽の後ろ姿を見送りながら、幽谷は心の中で謝罪する。



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