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 周泰は目の前の男を睨めつけていた。幽谷同様表情の乏しい彼にしては珍しく、憤怒も露わに殺気立っている。今にも男に襲いかかりそうで剣呑であった。

 されど、そんな眼差しを真正面から受けてなお、男は飄々とした姿勢で両手を顔の高さまで上げ苦笑してみせる。気安い声音で弁解した。


「仕方ないだろ? あいつが望んだことなんだ。安心しろ、オレが何が何でも守る。それに、あいつもちゃんと分かってる。何があっても身の振り方は心得てるさ」


 だから、お前は安心して役目を果たせよ。
 いやに馴れ馴れしい男に、周泰は目を細めた。ややあって、嘆息する。


「お前に任せるのが一番不安だ」

「おい。信用しろよ。お前の唯一の親友だろ」

「お前が勝手に言っているだけだ。昼のこと、幽谷から報告を受けている。単独で、猫族の娘に絡んだとな」


 何が何でも守ると、先程言ったな?
 責めるように刺々しい声に男は悪びれた風も無く返す。


「仕方ねえだろ。猫族の女の子なんて、初めて見たんだし。それにあいつはあの時宿にいた。一人で外出はさせねえようにしてる」

「……」

「……ああ、もう、悪かった、オレが悪かったからその匕首を下げろ! 瞬殺する気か!」


 周泰は無言で匕首を投げつけた。――――男の足下に向かって。
 それが何を語るか、男はその全てを即座に察して舌を打った。後頭部を掻いてじとりと周泰を睨めつける。


「分かった。さっさと戻れば良いんだろ、戻れば。幽谷にも不用意に接触しねえよ」


 やおら頷いた周泰は男に背を向ける。肩越しに振り返り、「あの方を頼む」と。

 男は大仰に溜息を漏らして見せ、片手を上げて了承の意を示した。
 その直後に表情は打って変わる。真摯で真っ直ぐな眼光は右に巡り、沈黙する襄陽城を見据えた。


「気を付けろ。新野に行くんなら確実に曹操軍と対峙することになる。今や破竹の勢いの奴らは欠点は多いが、それでも猫族だけじゃ確実に数で圧し負ける。どうせ、その時になればお前らが戦陣切って戦力を殺ぐ策を申し出るんだろ? くれぐれも無茶はしてくれるなよ、お前も幽谷も」

「……我らは母の命に従うのみだ」


 要領を得ない返答である。
 されど男にはその返答で十分だったらしい。短く頷いて口角をつり上げて見せた。

 それを視認し、周泰は歩き出す。大股に襄陽城へと進んだ。



‡‡‡




 誰もが寝静まった襄陽の街はまるで死んでいるかのように生気が無い。
 闇に呑み込まれた街の端々には、もぞもぞと蠢く小動物が点々と見受けられた。

 それらが《生き物》でないことを周泰は知っている。むしろ生きた人間よりも、狐狸一族よりも馴染んだ存在、世界かもしれない。
 周泰は際立って大きな小動物に近付き、片足を持ち上げてそれに向けて勢い良く落とした。

 ギキッ、と甲高い声が聞こえたかと思えば足の下から黒い蒸気に似たモノが立ち上った。

 それを傍観していた他の小動物達は途端に蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。日の加護を失ってようやっと存在を許される世界を乱す異人を畏(おそ)れ、離れた闇へと飛び込んでいく。
 未だ逃げることしか出来ない彼らに興味は無く、周泰は身を翻す。

 数歩歩いて、足を止めた。


「負の思念の具現体ですか」

「……」


 周泰は何も言わず拱手した。
 そこには、先程まで気配すらも感じられなかった恒浪牙がいる。ほんの二・三歩離れた程度のこの距離でようやっと気付けた。恐らくはそういった術を仕掛けていたのだろう。

 彼は人の好い笑みを浮かべて、


「さっきの青年は、荊州の猫族ですね」

「……はい」


 聞いていたのか、なんて問いはしない。
 特に知られたからと言って、会話を聞かれたからと言って焦ることは何一つ無いのだ。彼は母のたった一人の姪の夫なのだから。疑うことなど有り得ない。

 それに、荊州の猫族について恒浪牙自身思うところがあるらしい。顎を撫でて眦を下げた。小さく笑声が漏れた。


「彼が伯母上の仰っていた最後の一人ですか……これは、間に合わないかもしれませんね」


 困った風情で彼は言う。
 何が間に合わないのかと問うと、大昔に母から受けた頼みごとと言うだけで、その子細までは語らなかった。だがそれだけで十分だ。母が彼に何かを頼み、それが荊州猫族に関わることであると分かれば、無駄に深く追求する必要は無い。

 周泰は恒浪牙に頭を下げてその脇を通過した。

 そんな彼を、恒浪牙は呼び止めた。


「あなたに付いていた見張りは、こちらで対応しておきましたよ。一晩眠れば、植え付けた記憶もよく馴染むことでしょう」

「……」


 周泰は小さく謝罪する。


「あなたよりも私の方が術に関しては優れていますからね。何かあれば遠慮無く言って良いですよ。身内ですし」

「……いえ、お手を煩わせる訳にはいきませんので」


 再び謝罪し、彼は歩き出した。
 苦笑する恒浪牙を残し、襄陽城へ真っ直ぐ向かう。

 その左右の闇から、無数の睥睨を受ける。どれも矮小なものばかり。取るに足らぬ。
 人に害を為す程度の存在は、未だこの街では存在出来ないようだ。もっとも、曹操軍が攻め寄せれば逆転するだろうが。
 周泰以外、これらを見る者はいない。恒浪牙も周泰の行動から察したにすぎない。確証は持てないが、周泰には見える者、見えない者が感覚で分かるのだった。

 彼らを一瞥し、周泰は静かに歩く。

 嘗(かつ)て、母に拾われる前の記憶を思い出しながら。



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