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 場を澱ませる妖気は、考えるまでも無く劉備の小さな身体から放たれていた。
 諸葛亮と共に退がって背に庇い、幽谷は身構えた。

 諌めようと劉備を呼ぼうとして――――。


「劉備! ダメよっ!!」

「!」


 突如扉が乱暴に開かれ廊下に居座っていた気配が飛び込んできた。
 関羽であった。
 まさかあの気配……彼女がつけていたのか。
 驚く幽谷は関羽を呼ぶ。


「お前は……なるほど、ずっと隠れて聞いていたな。幽谷が扉の側に移動したのはこいつの所為か」

「いえ……まさか彼女であるとは思わず。申し訳ございません。確かめるべきでした」

「幽谷は悪くないわ。わたしが勝手についてきたの。ごめんなさい。でも、そんなことより――――」


 劉備に視線を向けた彼女は、その姿が間近にあることに頓狂な声を上げた。
 劉備は感極まった風情で関羽に抱きつく。ほんのりと頬を赤らめているが、濃密な妖気は変わらない。


「ちょ、ちょっと、劉備! いきなり抱きつかないで……こらぁっ!」

「ふふっ、いやだ。絶対に離さないよ。だって……ようやく会えたんだもの。ああ、ずっと会いたかった」

「……ええ、と」


 まるで、離ればなれになった恋人達が再会したかのような空気である。この妖気が無ければの話だが。そしてツッコむならば、劉備は二人きりの再会を喜んでいるようだが……この部屋は諸葛亮の部屋であり、諸葛亮は勿論幽谷もいる。
 対応に困った幽谷は諸葛亮を振り返り、視線で指示を乞うた。

 が、諸葛亮は呆れ顔だ。


「……あいにく、二人きりではないぞ」


 にべもなく水を差す。

 劉備は面倒そう幽谷と諸葛亮を振り返った。


「あ? そういえば、そうだっけ。ま、いいか。じゃあ幽谷。諸葛亮を連れて出ていってくれないかな」

「……長。その指示には従いかねます。この部屋は諸葛亮殿が利用されております。出ていくべきは、我らであるかと」


 正論を言った……つもりだ。
 だが今の彼には常識が通用しない気もする。ほぼ関羽しか見えていないようだから。そもそも今の劉備が他人の都合に気を遣うだろうか。いや、遣わないだろう。

 案の定、劉備は鼻を鳴らした。


「使えないな……こういうときは、言わなくても気を利かせて出て行くものだろ……」


 うんざりした声を漏らした劉備の耳を、関羽が抓り上げた。
 劉備は悲鳴を上げた。


「もう! 劉備! 幽谷になんてことを言うの! いいかげんにしないと、本当に怒るわよ!」


 容赦がない。
 抓った後は拳骨を何発も。照れも入っているだろうけど、あれは手加減をしていない。


「私達は、どうすれば」

「……やれやれ」


 諸葛亮は嘆息して、二人に歩み寄った。幽谷もそれに従う。


「彼の言うことに興味はあったのだがな。お前のおかげで、台無しだ」

「え……?」

「まぁいい。想像はつくしな。おおかた、劉表様を討って荊州を手に入れようとでも言うつもりだったのだろう?」


 関羽は目を剥いた。愕然と劉備を見下ろす。

 劉備と言えば、愉しげに嗤って頷く。


「りゅ、劉備!? ほ、本当なのっ!? どうして……? また、人をたくさん殺してしまうの……?」

「まあ、もともと僕は人間の国なんて、全部滅ぼすつもりだったしね」

「そんなこと、絶対に許さないわよ! それに、わたしたちに親切にしてくれた劉表様を討って荊州を手に入れるだなんて! そんなの、絶対にダメよ!」


 関羽は、心から劉表に感謝している。
 だからこそこんなことが言えるのだ。

 猫族にはこういった者が多い。
 だからこそ、劉表の野心を知る幽谷にはそれが心苦しかった。
 兌州から追い出したのが実は劉表であると知ったら、どんなに悲しむか……。


「君ならそう言うと思ってたよ。あーあ。猫族の国をつくるなら、それが一番手っ取り早いんだけどな」

「確かに、それが一番手っ取り早い。それは確かだな」

「しょ、諸葛亮!?」


 肯定的な科白に、関羽はまた声を荒げる。


「だろう? ははっ、なんだ。案外わかる奴じゃないか、諸葛亮」

「だが、手に入れるだけなら手っ取り早いが、国が滅ぶのも早いだろう。国ができた後のことは、考えていないのか?」

「んー。そういうのを考えるのは、面倒くさいよ」

「……なるほど、では、私がそれを考えるとしようか」


 諸葛亮は微笑むと、彼の指摘に笑みを消した劉備に恭しく拱手して見せた。
 そして、泰然と告げる。


「劉備様。私は、あなたに仕えましょう」


 劉備は片目を眇め、酷薄な笑みを向ける。探るように、才人を見つめる。
 諸葛亮は堂々とそれを甘んじた。


「へぇ……どういう風の吹き回し?」

「なに。お世話になった劉表様の危機を放っておくのも寝覚めが悪いでしょう」


 そして何より劉備に興味が沸いたのだと、挑むように言う。
 彼に、邪なる劉備に怖じた様子は微塵も無く。
 むしろ、言葉の通り興味深そうだ。
 何処までが本心で、何処までが彼の心算なのか。

 諸葛亮の心中を探っていた劉備は鼻を鳴らした。


「何を考えてるのかわからないけど。まぁ、よしとするよ」


 そこで、彼は一瞬身体を跳ねさせ目を伏せる。
 関羽に寄りかかって瞼を上げると、その目には澱みは無かった。妖気もぱたりと途絶え、急激に薄まっていく。

 軽くなった空気に幽谷は細く吐息を漏らして彼らから離れた。


「……ありがとう、諸葛亮。僕を、助けてくれるんだね」

「はい。猫族の国を手に入れるため、私の知の全てを劉備様に捧げましょう。もっとも、当面は火の粉を払う策を練ることになるでしょうが」

「……そうだね。それについても、全て君に任せるよ」

「かしこまりました」


 話は丸く収まったらしい。
 劉備が申し訳なさそうに振り返ってくるのに、幽谷は静かに首を左右に振って拱手した。

 一人、関羽だけが事態に追いついていけないでいる。
 辿々しく劉備を呼ぶ。


「……あなたは、それでいいのね? 諸葛亮を迎えて、猫族の国をどうしてもつくるのね?」

「……うん。君は反対なの?」


 関羽はかぶりを振って否とした。


「そうじゃないわよ。あなたが、そう決めたのなら……わたしも、そうするわ」


 最初こそ震えていたが、関羽は最後にははっきりと告げる。

 それを受けて、劉備は安堵した風情で微笑んだ。



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