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 嫌な者を見たその日の夜も、幽谷は劉備に付き従った。

 背後に何者かの気配がある。こちらを尾行しているようだが、言うべきだろうか。
 ……いや、いざとなれば自分が十分対処出来る距離にもいる。それに、見回りをしている周泰が気付いてくれるかも知れない。このまま好きに泳がせておこう。

 素知らぬフリして、昨夜と同様先に幽谷が声をかけて入室し劉備を招き入れた。そして、自身は例によって二人の邪魔とならぬように部屋の隅に立つ。


「来たのか」

「うん。昨日君と話して、いろいろ考えてみたんだ。僕のするべきことは、なんなのか。その答えを出したつもりなんだ。だから、それについて君の意見を聞きたい」


 諸葛亮は目を細め、それに応じる姿勢を見せた。

 丁度この時、幽谷は扉の側に気配を捉えた。壁にぴたりと張り付いて劉備達の会話を盗み聞きしている。
 幽谷はさり気なく扉の側へと移動した。それをどのように受け取ったのかは分からないが、二人は何も言わず、会話に戻る。


「一族みんなで平和に暮らしたい……ね。答えを出したというわりには漠然としているな。そんな子供じみた夢などに私は言うべき言葉はないよ。好きにすればいい」


 劉備は、諸葛亮の冷ややかな言葉を反芻(はんすう)する。眦を下げ、悲しげに金の瞳を揺らした。


「そうだね、そうかもしれない」

「あなたは聡明だ。……本当はわかっているのだろう? どうするべきなのか」


 諸葛亮の射抜くような眼差し、鋭い指摘。
 逃げを許さぬ彼の態度に、しかし劉備は逃げるように目を伏せて俯く。沈黙が暫し続いた。

 けれど、決然と面を上げて諸葛亮を強く、強く見据えた。


「今までみたいに、ただ逃げているだけでは結局誰かに利用されるだけ。僕たちは、逃げていては駄目なんだ……。だけど、逃げずに猫族が平和に暮らすためには力が必要……。誰にも利用されないための、戦う力が」


 矛盾している。
 戦いたくない、平穏が欲しいのに、それを求め手に入れる為には障害を排除する力は必至だ。戦わなければ、自分達の平和は守れない。
 だがそれも、この戦乱の世では猫族だけではなくどの国とて同じことである。動乱の世を生き抜き平穏を守る為には、力は絶対的な要素なのだ。
 この血に乱れた世の中では、そんな矛盾も常識となる。ままならぬものである。

 劉備も、それは十分分かっていた。彼の中で、すでに答えは出ている。

 諸葛亮は静かに続きを促した。


「その力を手に入れるためには、国が必要なんだ。僕たち猫族の、自分たちの国が……」


 諸葛亮は目を伏せ、僅かに口角を弛める。しかしすぐに引き締められた。


「あなたになら、わかるだろうか。僕は、多くの罪を負っている。河北で数え切れない人の命を奪ってしまった。それだけじゃない。幼い頃から見守ってくれていた、大切な人を……この手にかけさえした」


 大切な人――――世平。
 彼の遺体を燃やすその時は、幽谷の記憶に新しい。
 きっと、劉備の中で彼を殺したという事実は河北のことと共に未来永劫痼(しこ)りを残し続ける。それに、苦しみ続けることになる。
 それを彼は、死ぬまで背負う覚悟をしていた。
 そうでありながら長として猫族を守ろうと独り思案し続ける。幽谷や周泰よりもずっとずっと若い身で。


「もしかしたら、この先……僕は、もう一度……何より大切な人まで自分の手で殺してしまうかもしれない」


 そんなことはしたくない。
 猫族を守り抜きたいと、切実な望みを希代の才人にぶつける。


「そのためには、国がいる。邪なものに操られないように。利用されないだけの力を持つために」


 「なるほど」諸葛亮は目を細めた。


「だが、どうするんだ? 国というものは、作りたいと思って作れるようなものじゃない」

「わかってるよ。だから、そのために君の力が欲しい」

「私の?」


 少しばかり驚いた風情の彼に、劉備は力強く首肯した。

――――それからややあって。
 唐突に、部屋に諸葛亮の哄笑が響いた。額を片手で押さえて笑い続けた彼は収まるや口角をつり上げ興をそそられた目で劉備を見返した。


「これは、思ったよりも大胆な人物だったな。それとも、劉表様か劉キ様に、何か吹き込まれたのか? ……いや、吹き込むのであればあの周泰、恒浪牙という男の可能性もあるな」

「いや。君が天才だという話は聞いたけれども……でも、だからというわけじゃない。昨夜、話をして分かったよ。君は、いつも世界を見ている。荊州にいながら、世界を常に見つめている」


 自分にはそんな人物が必要不可欠。
 己の無力さを自覚した上で、諸葛亮に助力を乞うたのだ。

 非力さを悔やみ呪う猫族の長に、諸葛亮は何を思うか。


「無力な自分を呪うか……」


 伏せ目になった彼はそれまでとはまた違った眼差しで劉備を見た。まるで彼に誰かを重ねているかのような、そんな遠いところを見る目だ。
 どうも、この諸葛亮という男、猫族に対して何かしらの思い入れがあるように見受けられる。それが正か邪かは今はまだ計りかねる。
 この男についても一応、多少の警戒をした方が良いのだろうか?


「……確かに、世の動向は常に探っていた。世俗を捨てた暮らしをしていても、知という力を捨てては、世の中に翻弄されるばかりだ。そんな中で、注目していたものがある。それが、あなたたち猫族だ」


 諸葛亮は情報を想起しながら猫族が参加したと思われる戦いを並べていく。
 途中、幽谷に視線が向けられる。けれども幽谷が無反応であるとすぐに劉備に戻ってしまう。……何が、したかったのだろうか。


「大きな流れの中で、猫族は常にその中心にいた。そしてこの先も、猫族が大陸の動向の鍵を握り続けるだろう。その猫族が、自分たちの国を手に入れるか。そうなれば、まさに台風の目となるだろうな」


 淡々と、しかし何処か面白そうに語る諸葛亮の言葉を劉備は黙って聞いているだけ。

 そんな彼の様子に幽谷は不穏を感じた。
 雰囲気が――――否、場の空気が変わっているような気がした。
 思わず腰を上げて諸葛亮の側に移動すると、その真っ白で小さな身体が痙攣し始める。

 笑っているのだと気付いたのは諸葛亮の腕を引いて立たせた直後のことだ。


「……そうなれば、僕らが世界を手に入れる機会も出てくるわけか」


 くつり。
 咽の奥で嗤(わら)う。

 金色の目が澱みぐにゃりと歪んだ。



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