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 劉備の後ろに付き従い再び訪れた諸葛亮の部屋は、未だ灯りが点いていた。
 扉越しに幽谷が声をかけ、怪訝そうな応えに中へ入る。扉を全開にまで開いてこうべを垂れると劉備が謝辞を述べて入室した。

 諸葛亮が、心底驚いたように目を瞠る。


「これは驚いた。こんな夜中に誰が訪ねてきたのかと思えば、猫族の長ではないか。宴の途中で、眠くなったと部屋に戻っていたようだが」

「こんばんは。少し、話をさせてもらってもいいかな?」


 劉備の言葉に諸葛亮は思案し、これを許容した。

 劉備が座するのを視認した幽谷は扉を閉めて部屋の隅に佇んだ。劉備や諸葛亮に座れと言われたが、自分はただの護衛であって、会話に介入する気は無い。やんわりと、無表情に申し出を拒んだ。

 諸葛亮は諦め吐息をこぼし、劉備を見やる。


「それにしても、印象がずいぶん違うな」

「これが本来の僕なんだ」

「……なるほど。興味深い」


 一瞬だけ、口元が弛む。次に瞬間には引き締められた口からは、抑揚を抑えた静かな声が出た。


「話があると言ったな。聞こう。……もっとも、おおよそ予想がつくが」


 劉備は安堵したように笑った。


「さすがだね、諸葛亮。天下に並ぶものなきと言われる、その才。僕の思いなんて、とうにお見通しか」

「状況を考えれば、あなたが言いたいことはわかる。それだけだ」

「そう。状況は、必ずしも喜ばしいことばかりではないね」


 新野に土地をもらうということは、僕たち猫族が、いずれ曹操と戦うということになる。
 そう真顔で続ける幼い姿をした劉備に、諸葛亮は顎に手を添えて感じ入ったような声を漏らした。


「……わかっているのだな。意外、といっては失礼にあたるか。確かに、劉表様はただの善意であなたたちに新野を与えたわけではない」


 荊州は北と南を繋ぐ要地。呉を目的とする曹操も、この荊州を通ることは必定。その中で村々が戦渦に巻き込まれるのは必至であった。
 劉表にとっては、猫族は分厚い盾となる。野心の為、そして荊州を守る為。劉表は、猫族を平穏な世界から引きずり出したのだった。
 そのことも、この識者は察しているだろう。

 劉表の思惑を抜けば、猫族に対する判断は親切とも言える。
 だが、幽谷個人はそれでも彼に反発を覚えた。


「言っておくが劉表様の判断は、至極まっとうだぞ。良心的と言ってもいい」

「そうだね。この戦乱の世の中で、それは当然の考え方だと僕も思う。でも……」

「戦いに巻き込まれたくはない、か。そう思うのなら、新野を貰わず逃げればいい。あなたたちが思うほど、世界は狭くはない。それに、狐狸一族も味方しているらしいからな」


 ちらり、と劉備が申し訳なさそうに幽谷を振り返る。謝罪しそうな彼の様子に、幽谷は拱手することで先んじて返した。
 劉備は眦を下げつつ、微笑する。頭を下げて諸葛亮に向き直った。


「確かに、僕たちが暮らすことのできる土地は他にもあるのかもしれない。けれど、どこに逃げても結局は同じなんだ」

「ほう……?」

「今となっては、もう世の中が僕たちを放っておいてはくれない。僕が、あんな風に袁紹軍を乗っ取ってしまったから……」


 その時のことを思い出しているのだろうか。
 苦しげに絞り出された声に、しかし諸葛亮は口角を弛めた。


「……なるほど、確かに、あなたは現状を正しく認識しているな。だが、今あなたが言っていることは、ただの愚痴でしかない。私は、あなたの愚痴を聞くためにここにいるのか?」

「助言を……助言を求めたいんだ」

「助言? そんなものはないな。あなたが、自分で何をするべきかを知っているならば、それに対して助言をすることもできるだろう。だが、あなたはまだ自分のすることを決めることができないでいる」


 私の知を、己の行動の言い訳にされてはたまったものではないのだよ。
 諸葛亮はにべもない。冷たく劉備を突き放す。
 けれどもその奥に、劉備を促すような響きを持っていて。
 それに、幽谷は疑問を感じずにはいられない。会話の介入はしないけれども。

 彼の冷ややかな言葉に劉備は目を伏せて小さく頷き肯定した。


「……確かに、君の言うとおりだね。僕は、まだ悩んでる……。でも、ありがとう。よく考えてみることにするよ。……また、明日も来ていいかな?」

「……好きにしろ」


 劉備は弱々しく笑って拱手する。
 再び謝辞を言って、部屋を辞した。
 幽谷はそれに従い諸葛亮に深々と一礼して退出する。扉を完全に閉めて歩き出した劉備の後ろにつくと、彼は幽谷にも礼を言った。


「ありがとう、幽谷」

「いえ。明日もお供致します」

「うん。助かるよ」


 歩みを遅くして隣に並んだ劉備は幽谷に笑いかけた。


「どうしてだろうね。君を見ていると、とても懐かしい気分になる。ずっと前からいたような気になるよ」

「……初対面の筈、ですが」

「うん。だから不思議なんだ。でも、嫌じゃない。君も、周泰も、恒浪牙殿も、僕達にとても優しいからかもしれない」

「母の故人であった方の子孫であれば、それも当然のことです」


 劉備は目を細め、また礼を言う。

 礼を言われることではないのに……。
 困惑する幽谷に苦笑して彼は「部屋に戻るよ」と歩き出した。

 それに、幽谷も顔をほんの少しだけ歪めたまま従った。



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