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 その人物は、唐突に前方に立ち塞がった。
 反射的に諸葛亮を背に庇って立つも、相手の姿を認め即座に警戒を解く。

 暗闇の中、月光にぼんやりと浮き上がったのは恒浪牙だ。優しい微笑を湛えて幽谷に近付き、諸葛亮に会釈する。


「おやあ、これはこれは、諸葛亮先生ではありませんか」


 わざとらしく、演技がかった声音に諸葛亮が一瞬黙る。恒浪牙にしては、分かり易い態度と言える。
 けれども幽谷にはそれが分からず、酔っているのかもしれないと言う認識しか無かった。

 幽谷が廊下の際に寄って道を開けると、諸葛亮が前に進み出た。


「あなたは……猫族と一緒におられた方だったな。確か、呉の武将にも顔が利くとか」

「顔が利くとは言い過ぎですが……まあ顔見知り程度ですよ。私は、恒浪牙と申します。ところで、幽谷とお話しなさるのですか? なれば私も同席致しましょうかね。酒宴の熱気には老体にはちと堪えます。よろしいですか?」


 問いながらも、有無を言わせぬ言葉である。
 恒浪牙は酔っていない。何か含みを持って自分達の前に現れたのだとこの時になって幽谷は気が付いた。けれども恒浪牙は幽谷と親戚という間柄であり、警戒する理由は無い。彼もまた、考えがあってのことなのだろうと推測して諸葛亮の返答を見守った。

 諸葛亮の返答は頷きである。恒浪牙に拱手して歩き出し、自身にあてがわれた部屋へと向かう。
 それに追従する形で幽谷と恒浪牙が並んだ。

 恒浪牙は、幽谷に笑いかけてのんびりと話し出す。


「いやあ……やはり、どんちゃん騒ぎの宴の席を出ると肌寒さが身に染みますねぇ。あのままあそこにいると場酔いしそうでしたし、汗も掻いてしまいそうでした。私、結構重ね着なので」

「確かに……どれも布地は厚いようですが」

「ええ。丈夫ですからね。そうでもしなければ容易く森の中で引っかけてびりびり破けてしまうんです」

「そうなのですか? てっきり、何かまじないを潜めているからかと」

「ああ、それもありますね。この一番上に何枚か符を縫いつけています。付け焼き刃物なのですが、おかげで今まで無事に旅を続けることが出来ました」


 恒浪牙も天仙だ。それは謙遜ではなく諸葛亮に正体を知られない為の演技なのだった。諸葛亮も、恒浪牙や幽谷達狐狸一族には用心で目(もく)せられているだろう。
 幽谷もその点は心得ているので「良かったですね」と感心したでもなくただ淡泊な言葉を返した。

 それから暫くは恒浪牙との談笑が続いた。談笑と言っても幽谷はにこりともしない。終始笑っているのは恒浪牙のみだ。
 諸葛亮は会話に加わらない。否、それ以前に恒浪牙は話を振ろうとはしなかった。


「ここだ」


 幽谷を振り返り淡々と告げる。扉を開けて入った彼に従って入室すれば、彼は席(むしろ)を二人に勧めた。
 恒浪牙と並んで端座し、目の前に腰を下ろした諸葛亮を見据えてその口から問いが放たれるのを待つ。

 諸葛亮はすぐには話し出さなかった。思案しつつ恒浪牙の様子を窺い、時折眉根を寄せる。
 やがて、


「……お前の名前は幽谷。それで間違い無いな」

「はい」

「……そうか。ではお前は、四凶だな」

「いいえ。四霊です」


 二つ目の問いに答えたのは幽谷ではなく恒浪牙だった。笑みが、先程までとは違う。柔らかい微笑だけれど、薄ら寒いものが漂う、不穏で威圧的な笑みであった。

 諸葛亮の顔が、一瞬だけひきつったように思う。


「四霊は天仙が作り出した解毒剤――――いえ、人間で言う免疫のようなものですね。天帝の下知によって人の世に降りてきた四霊の器。四凶なんて不吉な呼び方は、人間が勝手に付けた蔑称に過ぎない」


 口調こそ穏やかに。されども眼差しは諸葛亮以上に冷徹で、冷酷だ。常の彼はなりを潜めている。

 諸葛亮は少しばかり顎を引いて恒浪牙を凝視する。
 ややあって、拱手して神妙に謝罪した。


「ご不快にさせてしまったようだな、まことに申し訳ない」

「いいえ。お気になさらず。四霊であると認識いただければそれで結構です」


 ……そう言えば、と幽谷は己の記憶に手を突っ込んだ。
 そう言えば自分達四霊は母の姪の手によって作られたのだと聞く。その夫ともなれば、やはり妻の作り出したものが蔑まれていることなどには悲憤慷慨(ひふんこうがい)するのだろう。

 恒浪牙の横顔をじっと見つめる幽谷は、ふと彼がこちらを向いたのに僅かに仰け反った。


「私の顔に何かついていますか?」

「いえ……失礼致しました」

「そうですか。では、帰りましょうか」

「え?」


 どっこいせ、と重そうに腰を上げた恒浪牙に幽谷は困惑の声を上げた。
 諸葛亮の様子を窺えば、何かを考え込むように恒浪牙を見上げて沈黙している。異論は唱えない。質問はもう終わったということなのだろうか。

 本当に良いのかと逡巡して腰を上げずにいると、恒浪牙が促すように呼んでくる。

 それでも決めかねている幽谷に、そこでようやっと諸葛亮が彼女を見やった。


「私の質問はこれまでだ。もう戻って良い。時間を取らせてしまって、すまなかった」


 その割には、まだ思案顔だ。幽谷を探るように見つめ、何かを問いたげにしている。


「……は。では、これにて失礼つかまつります」


 釈然としないものを抱きつつ、幽谷は立ち上がって諸葛亮に拱手し、急ぎ足で恒浪牙の後を追いかけた。

 彼はすでに、回廊を歩いている。



‡‡‡




 目の前に、ぱさりと紙が落ちる。
 それを静かに拾い上げた諸葛亮は文字の羅列を追い、目を細めた。


『幽谷の過去に触れるべからず』


 たったそれだけの文字。
 けども諸葛亮には、その流麗な文字が誰のもので何の意図があって諸葛亮の前に落としたのか察しが付いていた。


「やはり、あの幽谷は――――……」


 あの官渡の戦いで消滅した《猫族に従う四凶》なのか。



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