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「あー、おのおの方。少しよいかな。この機会にもう一つお伝えしておこう。他ならぬ、我が息子劉キのことじゃ」


 声を張り上げて注意を引いた劉表は、沈黙した間に笑みを深め劉キを見やって一つ頷いた。

 劉キも頷き返して一歩前に出る。
 一度深呼吸をして、微笑を浮かべて口を開いた。


「このたび、わたくし劉キは江夏へうつることになりました。江夏城主として荊州を支えてまいります」

「なにを隠そう、劉キを江夏へ薦められたのはここにおられる諸葛亮先生じゃ。江夏は、強国呉と国境を接する地。過去何度か攻められたこともある我が要所じゃ」


 そこで、一旦言葉は途切れる。
 劉表は周泰を一瞥した。
 やはり……周泰が呉の武将であると気付きつつあるようだ。
 兄の袖を引くと、恒浪牙が苦笑混じりに劉表を呼んだ。


「劉表殿。どうやら先程から周泰を呉の武将と誤解され警戒しておられるようですが、同じ名前の全く別人ですよ。私は元々放浪の薬売りでして、呉の周泰様とも二度程お会いしたことがございます。信じる信じぬは、あなた次第ではございますが」


 和やかな笑顔を以て嘘をつく。
 周泰のことで猫族に要らぬ波乱を呼び寄せまいとしたのだろう。……あの劉表が信じるとも思えないが。

 案の定、劉表は疑念のこもった目で恒浪牙を見やった。何も言いはしなかったが、恒浪牙に対しても警戒を抱いたかもしれない。
 そんな彼に、今度は声を低くして恒浪牙は告げる。


「……まあ、神の一族のみならず天帝を敵に回す勇気がおありであれば、そのままお疑い下さっても私は一向に構いませぬが」


 拱手して、彼は関羽の持ってきた料理に手を着ける。

 知らぬ顔して懐から《何かが》包まれた懐紙を取り出して膝に置き牽制する恒浪牙に、劉キは苦笑混じりに言った。


「恒浪牙殿。狐狸一族は神聖な存在です。それに、同姓同名など、この広い世の中よくあること。猫族の方々をお守り下さっている周泰殿や幽谷殿を疑うなど有り得ません。そうですよね、父上」

「う、うむ……そうじゃな」

「それは有り難い。私も、狐狸一族とは多少のお付き合いがありますので。長と親しかった劉光と同じ祖を持つあなた方が狐狸一族をお疑いになるなど、まことに心苦しくて仕方がありません。劉キ殿のお言葉を聞き、安堵致しました」


 恒浪牙の脅しとも取れる科白に劉表は鼻白んだ。
 怖じたように二人から視線を逸らし、コホンと咳払いして気を取り直した。


「……りゅ、劉キは幼い頃から病弱ゆえ、これまで私の元で大事に育ててきたが、我が息子ながら頭はきれる。劉キならば呉をしっかり抑えてくれるじゃろう。のう、先生?」

「……はい。劉キ様ならば、大丈夫でしょう」

「ということじゃ! 襄陽を中心に、江夏に劉キ、新野に劉備殿。これで荊州もますます栄えるというものじゃ!」


 そこで、また諸葛亮への未練を漏らすが、苦笑混じりに笑って誤魔化した。

 諸葛亮にそれを気に留めた様子は無い。それよりも幽谷や周泰の方をじっと見て、何かを思案しているようだ。一瞬、遠い目もする。
 彼の視線から逃げようと、幽谷はその場を立った。酒気にやられたらしいと周泰に一言断って、庭に降りる。



‡‡‡




 浮き足だった賑わいを離れ、虫の鳴き声のみが満たす場所にまで至って、ようやっと一息ついた。

 外に出ると、如何にあの場に熱気がこもっていたか分かる。ひんやりとした夜風が知らぬうちに火照っていた頬を冷ます。

 一人池の畔に佇み、劉表の姿を思い浮かべる。
 劉表を兄が嫌っている理由が分かったような気がする。
 猫族達には分からぬ程度にまで上手く隠しているが……彼は息子と違って祖を同じとする猫族を都合の良い武力程度にしか見ていなかった。
 心の片隅には敬意はあるのかもしれない。だがそれよりも己の野心を優先しすぎているのだ。

 病を得たところへ、北を支配しその食指を南へとの向ける曹操の圧力が及んだが故だろうか。

 ……いや、劉表の事情などどうでも良い。
 幽谷にとって大事なのは狐狸一族の長――――母の命令だ。
 何に於いても猫族の意志を尊重し、彼らを守れ。
 その為に、自分達はここにいる。それを違えてはならない。
 両手に拳を作り、幽谷は目を伏せた。脳裏に反響するのは自分とほぼ同時期に狐狸一族に迎えられた姉の言葉だ。


『別に、十三支なんざ助けなくても良いと思うけどね』


 猫族を侮蔑しきった彼女の言葉を、狐狸一族は誰も咎めなかった。
 姉は、猫族を恨んでいる。心に染み着いている憎悪は、どうあっても洗い流せない。
 けれどもそんな彼女は周瑜を普通に猫族と、幽州の猫族を十三支と呼んで区別する。それは周瑜に対して同情しているからだった。周瑜の生い立ちを知っているのか、彼女は周瑜に対しては態度は柔らかい方だ。

 もし、彼女が関羽達と顔を合わせたら、罵倒を浴びせかけるのだろうか。
 それはとても寂しいことだと思う。
 幽谷にはその深すぎる憎悪を拭うことは出来ないけれど――――。

 そこまで考えて、幽谷ははっと顔を上げて身体を反転させた。

 そこには、無表情の諸葛亮がいた。
 慌てて拱手しようとすると片手で制された。


「少し良いだろうか。お前に訊きたいことが二・三ある」

「私に……ですか」

「ああ。私の部屋に行こう。ここでは人の耳にも入るやもしれぬ故にな」

「……はあ、」


 そのような気遣いをするのか。
 怪訝な顔をしていると、諸葛亮は肩越しに振り返って涼しい顔で彼女に答えた。


「狐狸一族の人間について、このようなところでずけずけと訊くのも無礼だろう。今まで世に噂すらも出なかったのはそれなりに理由がある筈だ」

「……理由、ですか」


 ……いや。
 別に狐狸一族は隠れているつもりはない。
 ただ、住んでいる場所が人も立ち入れぬような険しい山頂であり、また長江以外からの進入は自然によって封じられているので立ち入る人間も限られるし、噂も立たない。
 加えて狐狸一族は人間の世へ出るにも、昔からの風習で揃いの頭巾を被るので自然耳が隠れてしまう。

 幽谷はしていないが、それは狐狸一族のことを知らぬ者には四霊であるが故だと勝手に解釈されているのでする必要は無いと許されている。周泰も、母が髪の色を気に入っているという理由で頭巾は渡されていない。

 存外開けっぴろげな一族であると教えたら、彼はどんな反応をするだろうか。
 ついてこいとこちらの返答も聞かずに歩いていく諸葛亮の背中を見、そんな好奇心を抱いた。

――――実際にはしないけれども。



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