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酒気と料理の芳ばしい匂いに頭がくらりとする。
劉表はその日の夜に盛大な宴を開いた。猫族全てに客人用の部屋をあてがい、彼に出来る最上の持て成しを尽くした。
表向きは温情溢れる彼の計らいに、過酷な旅に疲れ果てた猫族達は随喜(ずいき)し与えられた大量の料理に感じ入った。
加えて新野という土地を与えてくれたともなれば、彼らも手放しに劉表に感謝し、ほとんどの者が信用した。
「ははは! さあ、今宵は存分に楽しんで下され。三百年ぶりに、劉の一族が一緒になっためでたき日じゃ。さあ、劉備殿、遠慮せずに」
「うん。ありがとう」
長であるからと、劉表の隣に座って果実の汁を盃に注がれている劉備は、嬉しげにそれを飲む。
劉表に邪なる下心があろうとも、彼らはこれに心救われている。
いざとなれば自分達が動けば良いのだ。今は、心身共に休んでいて欲しい。
幽谷は料理には毒味に少し食したのみで、飲まず食わずに部屋の隅にてはしゃぎ談笑に花を咲かせる猫族を眺めていた。趙雲や関羽などが勧めてきたが、何か起こった時にいち早く動けるようにと押し切った。それに、これは口にしなかったが、夜の見回りもせねばならぬ。幽谷達は、劉表という男を全く信用していないのだから。
そういった訳で譲らぬ幽谷を、猫族は結局放っておくことにしたようだ。ようやっと得られた安穏を感じていたかったのかもしれない。
隣には周泰と恒浪牙もいる。そして、何故か蘇双も。
周泰は幽谷とほぼ同じ理由で、恒浪牙は沈酔した者が現れた時などにすぐに対応出来るようにとの理由でここにいるのだが、蘇双の意図は不明である。
浮かない顔をしているのは劉表を疑っているが故のことだと推察するが、それだけでわざわざ盛り上がらない三人の方へやってくるのとはまた違うように思えた。
「はあ……」
「蘇双殿。溜息ばかりつかないでもらえませんか。理由はお察ししますけれども。この老い耄れまで気分が下がってしまうではないですか」
「……ごめん」
謝罪した側からまた溜息。
恒浪牙も苦笑して幽谷達に肩をすくめて見せた。
と、蘇双を捜していたのか関定がこちらに駆け寄ってくる。その手には料理の乗った皿となみなみと注がれた盃がある。
異様に生き生きとした関定は蘇双の側に腰を下ろすと、砕けた態度で幽谷達に片手を挙げて見せた。
「どうしたんだよ、蘇双。暗い顔してんな。楽しい宴だろ?」
蘇双はじとりと関定を睨め上げた。馬鹿じゃないのか、とでも言いたげだ。
「みんな脳天気すぎるよ。怪しいって思わないわけ?」
「あー、またそれかよ」
まだ言っているのかと関定が呆れた風情で片眉を上げた。また、と言うことはここに来る前にもそのような発言をしていたのだろうか。
横目に釈然としない蘇双の様子を眺めていると、
「――――蘇双の言うことも分かるわ」
別の人物の声が聞こえてきた。
関羽だ。あれだけ断ったのに、沢山の料理を皿に盛ってこちらに歩み寄ってきている。三人分の箸もちゃんと持っている。その後ろには張飛もいた。
「でももう、これ以上旅を続けるのは厳しかったと思う……」
「そうだぜ、蘇双。大事なのはみんなで生き残ることだろ? 幽谷達にも負担かけちまうし。毎日二人は後退で寝ずの番してくれてたんだぜ。何処かで二人もちゃんと休ませた方が良かったんだ。それに、恒浪牙もゆっくり薬を作りたいだろうし」
話が幽谷達にも至ってしまう。
気にするなと言おうとすると張飛がにっかと笑って「気にすんなよ」と先んじた。
周泰達を見やり、蘇双は気まずそうに口をもごもごとさせた。
「それは、ボクも思うけど……。というか、張飛に言われるとなんかムカツク」
「んだよ、それ!」
「まぁまぁ、せっかくこんなに可愛い娘もいるんだ。楽しまなきゃ損だって!」
びしっと指差されて幽谷はたじろぐ。
周囲が呆れの冷たい眼差しを関定へと向けた。
「関定はどこに行ってもぶれないわね……。その安定感に安心するわ」
「だろ? 何が起こるかわからない乱世にこそ男に求められるのは安定感だぜ。よし! 俺は早速声をかけてくる!」
にっこりと胸を張りながら無邪気な笑みを浮かべた彼は、次の瞬間にはこちらに背を向けた。片手を大きく振って広間を歩き回る女官に駆け寄っていく。弾んだ声は一層生き生きとしている。
「……幽谷を可愛いと言いながら、そっちに行くのね」
「あの馬鹿……」
「悪いな。幽谷。周泰も。あいつ、いつもあんな感じだから気にしないでくれよ」
「はあ……」
可愛いと言われたことには非常に驚いたが……あの行動の早さにも驚いた。
関定は猫族の中でも最も足が速いと聞いた。それを普段から生かしているということなのだろうか。
そういった点は見習いたいものだった。
一人頷いていると、恒浪牙が、
「あー……幽谷。今あなたが何を考えているのか教えて下さい」
「いえ、大したことでは……ただ普段の生活から己の特性を生かす姿勢は、素晴らしいと」
「「「思わなくて良い(わ)」」」
声を揃えたのは蘇双と関羽、そして張飛である。真顔で低く言われ、幽谷は緩く瞬きした。
「幽谷。あいつだけは真似すんなよ? 絶対に」
「はい?」
「あいつは見本にはならない。なっちゃいけない」
「いえ、別に見本などには……」
「……関定に近付いちゃ駄目よ、幽谷」
真顔で三人から言われると、それなりに威圧感がある。
まるで周泰以上の長身である長兄達に見下ろされているような圧力を感じる。
幽谷は困惑しつつ、やおら頷くしか無かった。
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