襄陽城に入ると、外からの風を拒まずに受け入れ、美しく整えられた外の景観を見渡せる造りの細長い謁見の間に案内された。客人の到来に合わせて香が焚かれたのだろう、鬱陶しくない程に薄い甘い匂いが鼻孔を擽(くすぐ)った。

 間の奥に立っているのは二人。
 椅子に座っている老年の男は病の気があるのか、顔色が悪い。恐らくはこの人物が劉表なのだろう。

 では、その隣に立つ若い青年は、彼に仕える文官か?
 ……まるで冷たき水のような男である。
 幽谷は無礼と思いながらその人物をつぶさに観察した。
 果ての無い知が、その透明で怜悧(れいり)な眼差しの奥に凝縮されているような、そんな気がする。だがその影に、微かに黒いものも揺らいでいる。一瞬見えたそれは、決して気の所為なのではない。
 彼の眉目は涼しく整っているが、幽谷には個人の美醜よりもその目が印象的だった。

 幽谷の視線に気付いた青年は柳眉を顰(ひそ)めるが、幽谷の狐の耳に気付くと少しだけ目を瞠った。


「父上。劉キでございます」

「おお。もどったか、劉キよ」


 劉表が息子に笑いかけ、その後ろの猫族を見た瞬間笑みを一層濃くした。一瞬だけ瞳に過ぎった野心に、幽谷は嫌悪を抱いた。やはり、あまり好きになれそうにない。


「父上がお命じになられたとおり、猫族の方々をこの地へご案内いたしました」

「猫族……?」


 青年が訝しむように目を細め、劉備達を見やった。猫族と幽谷を交互に見、何か思案深げに顎に手を添える。


「おお。先生、これは申し訳ござらん。息子が帰ってきたので、つい嬉しくてな」


 劉表が謝罪をする。

 青年はすぐに目を伏せた。
 先生……とは学徳に優れた人物であるのだろうか。あの、幽谷とさほど変わらぬであろう若さで。
 だが、太守に『先生』と呼ばしめる人物であればあの叡智(えいち)を湛えた涼しげな目にも納得がいく。


「いえ」

「それで、先生。どうであろうか? やはり、この劉表に仕えてはくれぬか?」


 「申し訳ありませんが」青年は頭を下げる。その一言と慇懃(いんぎん)な態度にて、やんわりと断った。

 劉表は仰々しく落胆してみせた。


「そうか……。いや、重ね重ね申し訳ない。何度も何度も……しかし、やはり未練でのぉ」

「そう言っていただけるのは光栄ですが」

「いやいや、本当にすまぬ。ただ、先生の才を野に埋もれさせるのは……いや、これも未練じゃな」


 青年は苦笑めいた微笑を浮かべ、手にした羽扇を撫で深々と一礼した。

 幽谷の側で、関羽が声を潜めて青年について劉キに問う。
 彼が答えるには、諸葛亮という名で、天下に無二の才を持っている賢人であると言う。が、そんな彼は誰にも仕えずに隠遁生活を送っているのだとか。

 関羽が諸葛亮を見つめ、表情を堅くする。感心してはいるが、同時に彼の冷たい雰囲気に苦手意識も感じているようだ。彼女を観察していると、何を考えているのか存外分かる。


「ところで、劉表様。彼らは、猫族ですね?」

「うむ。曹操の元に住まっていたのだが、事情があって逃れてきた者たちだ。いろいろと言われているが……この荊州は、彼らの故郷でもある。それで、彼らを受け入れたいと思ってな」


 ……白々しい。
 こうなるように仕向けたのは、お前ではないか。
 心の中で唸る幽谷は、胸中を出すまいと表情筋を強ばらせる。

 ちらりと周泰を見やると、彼は平素を保っていた。少しだけ、自分が情けない。


「ほう……。すると、猫族が許都を出たというのは本当だったのですか。なるほど……」


 隠遁生活を送っている割には情報を仕入れるのが早い。世俗を離れていても、世の情勢に鋭敏であるらしい。


「父上、先生。猫族の方々をご紹介してもよろしいでしょうか?」

「おお、もちろんだ。猫族の方々、せっかく訪ねていただいたのにご挨拶も遅れて申し訳ない。私が荊州の太守、劉表じゃ。この荊州はそなたたち猫族の故郷でもある。ゆっくりと、くつろいでいただきたい」

「ありがとう。おじいちゃん」


 劉備がぺこりと頭を下げると、劉表は不思議そうに彼を見る。されど彼が名乗ると驚嘆に表情を変えた。劉備が何者か分かっているようで頻(しき)りに頷く。
 その側で、諸葛亮も劉備を見つめている。劉表とは違い、表情には何の感情も表されない。


「なるほど。子供の姿とはいえ、並々ならぬ才を感じさせる。」

「だって、ぼく猫族の長だもん」

「ははは! なかなかに英邁(えいまい)な長ぶりなことだ。これは、先々が楽しみであるな」


 破顔一笑した劉表は、次に幽谷に気が付いて怪訝そうな顔をした。


「……はて、そなたも猫族なのだろうか? 耳の生える場所も、形も異なるようだが……」

「いえ……私は、狐狸一族の者です。長の命を受け、猫族をお守りするようにと兄と共に遣わされました」


 周泰の反応を窺いながら幽谷は拱手して答える。
 すると劉表も諸葛亮も俄(にわか)に色めき立った。


「何と……! あの神の一族が、今もなおこの世に存在していたとは……」

「……だが、この中にお前と同じ耳を持つ者はいないが。兄はここにいないのか」

「兄は俺だ。耳は持たぬが、狐狸一族と長に迎えられている」


 淡々と周泰が口を挟む。そうしながら牽制するように諸葛亮を静かに見据えた。


「我らは猫族の決定に従うのみ。我らのことは気にせずに話を続けられよ」

「う、うむ……」


 劉表は周泰と幽谷を交互に見やり落ち着かない様子で言葉に詰まる。神の一族が猫族についていることで己の野心が後ろめたくなったのだろうか。……いやそれは無いか。

 彼に助け船を出したのは、諸葛亮である。


「ところで、劉表様。彼らを荊州に迎え入れるご意向とのことですが、具体的にはどのように?」

「う、うむ。新野の地を差し上げようと思っているのだ。どうであろう、猫族の方々よ」


 新野。
 幽谷は目を細めた。

 猫族達は突然の申し出に驚いているが、喜ぶだけで済ませて良いものではなかった。
 新野に猫族が住む――――これは、南下する曹操へ対する盾にされるも同じことではないか。

 されども、幽谷は口にも顔にも出さない。そうすることは許されていないからだ。あくまで、優先すべきは猫族の意志。こちらに口出しする必要は無い。
 確認するように周泰を見れば、彼は頷いてくれた。

 それを受けて傍観の姿勢を保つと、


「なるほど。新野をですか……」

「ふむ? もしかすると……先生は、反対であろうか?」

「……いえ。劉表様のご決断に異を唱える権限は、私にはありませんから」

「また、そのような。先生には政にも関わっていただければと常々申し上げているとおりなのですがなぁ」

「いえ、私は……」

「やれやれ、先生の意志は石よりも堅いようで困ったものですな」


 おどけて言いつつ、劉表は猫族に朗笑を浮かべて見せた。


「というわけなのだが、猫族の方々。これからが新野の地でぜひ暮らしていただきたい」


 関羽は口を開きかけ、戸惑う。長である劉備に意見を乞うた。

 劉備は笑顔で、この申し出を受け入れる。


「おうちができるのは、いいことだよ」

「そ、それはそうだけど……」

「ぼく、曹操のとこの村、好きだったよ。みんなでいっしょにお仕事したりゴハン食べたり、遊んだりして。ぼくたちがずっと暮らしてた幽州の村みたいで、好きだったの」


 猫族の長にとって大事なのは、きっと《みんながいっしょ》であることなのだろう。
 それを分かっている関羽も、瞳を揺らして彼の名を呟く。


「おうちができたら、またみんなでいっしょに暮らせるんでしょ? 張飛、そしたらまたいっしょにかくれんぼしようね! 周泰と、幽谷もいっしょ!」


 周泰。
 その人名に劉表が反応を示す。されども発言までには至らなかった。


「ああ、そうだな。劉備なんて、すぐに見つけてやるぜ! な!」


 同意を求めてくる張飛に、周泰は無表情で鼻を鳴らし、


「……さてな」


 嘯(うそぶ)く。そうしながら、何故かちらりと劉表と諸葛亮の方を見やった。探るように見つめるのもつかの間、すぐに劉備に袖を引かれて視線を落とす。


「ぶー、ぼくすぐ見つからないもん。そうだよね?」

「幽谷に、秘訣をお訊き下さい」

「えっ」


 幽谷は思わず一歩後退した。
 周泰の目にからかいの色があるのに、ひやりと背筋を凍らせた。


「幽谷、かくれんぼ得意なの?」

「えっ? ……さ、さあ……」


 言葉を濁し、幽谷は追求される前にさっと趙雲の後ろに隠れた。
 何かと理由を付けて着飾らせたがる主から毎日のように逃げて隠れていたのはもう三ヶ月も前のことだ。今はそんなことしていない。

 周泰を睨むと、ほんの一瞬だけ彼の口角が上がる。……彼が笑うのは非常に珍しいが、それよりも何よりも恨めしい。


「それで、どうなのか? 私の厚意を受けていただけるのであろうか?」

「……はい。ありがとうございます、劉表様」


 関羽はやや沈黙した後深々と頭を下げた。それに従って、張飛と劉備もそれぞれ一礼する。


「おお、それはよかった。めでたいことだ。これで三百年の昔に分かたれた血族が、また一つの地に暮らすことになる」


 そうと決まれば、歓迎の宴といこうではないか。
 機嫌良く言い放った劉表は、諸葛亮も巻き込んで猫族を労(ねぎら)った。



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