関羽が来たので、逃げた。……勿論見回りはしたけれど。
 幽谷は暗鬱とした心持ちで嘆息し、隊列の横を歩いていた。

 母の友人の子孫に対して無礼な振る舞いをしているという自覚はある。けれども関羽だけは、いつまで経っても慣れない。
 このままではいけないと分かってはいるのだけれど……。
 彼女のもとに戻るまでは、どうにかせねばなるまい。……何をどうすればこれを克服出来るのか、全く分からないけれども。
 重苦しい胸中にまた溜息が漏れた。

 と、そこに幽谷へ歩み寄る者が一人。


「幽谷」

「……趙雲殿」


 少しばかり気遣うような面持ちで隣に並んだ彼は、幽谷の顔を覗き込んできた。


「浮かない顔をしているが、気分が悪いのか?」

「いえ……体調に問題はありません。お気遣い、恐縮です」


 そう言って頭を下げると、趙雲は何かを察したらしい。周囲を見渡して、苦笑を浮かべた。


「もしや、関羽か?」

「……」


 無言は肯定である。

 趙雲は幽谷の頭を撫でた。

 幽谷が関羽に強い苦手意識を持っていることは周知の事実であった。

 押しに弱いらしい彼女に、関羽が劉備と同じ程の過保護振りを発揮しているのだ。今や関羽の姿を見ただけで幽谷は何処かへと逃げてしまう。たまに、周泰の後ろから周囲の様子を見回していることもある。
 普段凛とした彼女の見た目よりもずっと幼い行動が、徐々に可愛らしく感じられるようになっているのは趙雲だけではあるまい。実際、微笑ましそうに逃げる幽谷を見ている老婆や大人が見受けられる。


「関羽も、お前が心配で放っておけないんだ。それだけは分かってやってくれ」

「それは、恒浪牙殿にも、兄にも言われております」


 「ですが……」と歯切れ悪く、言葉は消えていく。
 関羽の押しが強すぎるのだろう。元々人付き合いが苦手な方だからこそ、余計に恐怖を感じてしまうのかもしれない。
 彼女にはこの年でたった一人、仕えているという年下の少女以外に友人がいなかったという話だ。余程、身内に大事に育てられたのだろう。もしくは、狐狸一族自体閉鎖的な種族である可能性もある。

 猫族にも彼女と年の近い女性はいる。彼女らと仲良くなれれば良いが、時間はそれなりにかかるだろう。
 出来れば長く、共に行動していたいものだ。


「まあ、ゆっくりと慣れていけば良いさ。困ったら、俺のもとに来れば、少しなら彼女も宥められる筈だ」

「……ありがとうございます」


 幽谷は深々と頭を下げた。



‡‡‡




 それから暫くして。
 幽谷がはっと背後を見やって趙雲の前に出た。

 何かから隠れるような彼女の行動の理由は、すぐに分かった。


「ま、待って、幽谷!」

「関羽、落ち着け」


 趙雲が関羽を振り返れば、大事そうに何かを握り締めて駆け寄ってくる。

 趙雲の影に隠れる幽谷を覗き込んで必至に呼ぶ。
 それを宥めながら、趙雲も幽谷の様子を振り返った。
 表情が、僅かばかりひきつっている。関羽が押せば途端に逃げてしまいそうだ。

 早速、か。
 苦笑を禁じ得ない。

 関羽を諭そうとすると、


「ああ、ほらほら。また同じことを繰り返してしまいますよ。関羽さん」

「恒浪牙殿」

「やあどうも。関羽さんにお供を頼まれてしまいまして」


 後頭部を掻きながら、へらへらと歩いてくる天仙。関羽を一瞥して、趙雲に肩をすくめて見せた。

 趙雲が頭を下げると、関羽を警戒しながら趙雲の隣に並んで拱手する。
 恒浪牙も一礼して関羽を叱るように呼んだ。

 関羽は肩を縮めて小さく謝罪する。でも、と言おうとしたのを恒浪牙が威圧的な笑顔で阻んだ。


「幽谷、関羽さんは周泰殿に頼まれて、あなたが張飛殿に差し上げた薬をお返しにいらしたんですよ」


 彼女は、え、と首を傾けた。


「あの薬を? お使いになられなかったのですか?」

「ええ、別の方が私の薬を与えたようですので。関羽さん」


 悄然(しょうぜん)とした関羽の背中を押し、幽谷の前へと押し出す。
 幽谷が反射的に逃げようとしたのを、趙雲が背中を押さえて留めさせた。小さく謝罪された。無意識だったのだろう。

 関羽は幽谷に謝罪した後、懐紙に包まれた薬を差し出した。不安そうに、幽谷の動向を窺っている。ここで幽谷が受け取らずに逃げ出してしまったら、彼女も相当な精神的衝撃を受けてしまうだろう。
 そうならないようにと、幽谷の背中から手を離さずにいておく。

 幽谷はそろそろと手を伸ばし、関羽の手に触れないように薬と取り、懐に戻す。一連の動作から、苦手意識の強さが窺える。

 そこまで、苦手だったのだな。
 趙雲は、未だに苦笑を消せないでいた。


「はい。では、戻りましょうか」

「え、あ、……はい」


 恒浪牙が幽谷の様子を見、関羽を反転させて押す。趙雲に会釈して、関羽を半ば強引に隊列の後方へと歩いていった。名残惜しげに幽谷を振り返る彼女を宥めながら。

 姿が猫族達に紛れて見えなくなったところで、幽谷が長々と嘆息する。胸を撫で下ろした。些(いささ)か大袈裟な気もするが、冗談も通じにくい彼女は本気で安堵している。


「本当に苦手なんだな」

「……すみません」

「いや……」


 慣れてくれるだろうか。
 彼女を見ていると、先行きはとても長そうだ。



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