火傷の手当を受けて真っ白な包帯に包まれた両手を見下ろし、幽谷は緩く瞬きした。

 火傷は、水に浸ければすぐに治せる。それに、周泰にも癒してもらえる。だからこのような処置を受ける必要は無かった。
 そう言ったのに、関羽達は信じずに治療を免れる為の嘘だと勘違いした。

 それからも関羽は幽谷が両手を痛めつけてしまわないか監視をしてきた。どうして良いのか分からなくて兄に助けを求めたが、自分達と親戚だという恒浪牙に宥められて結局は解決には繋がらなかった。

 幸い、猫族の長に関羽はべったりなので彼女の隙を見つけて視界から消えることはとても容易かったのだが、そうなると躍起になって探されてしまう。

 幽谷はすっかり関羽のことが苦手になっていた。いや、嫌いではないけれど、今まで出会った女性達の中で一番接し方が分からない。
 まるで母か姉であるかのように叱りつけては世話を焼こうとするから、幽谷は戸惑ってばかりだった。調子を崩されてしまう感覚が嫌でついつい彼女から逃げてしまう。

 ようやっと手に入れた静かな時間。荒野の見晴らしの良い場所で野営し、人間達に怯えながら寝静まる猫族の為に周泰や恒浪牙と分担して三方向寝ずの番をしている時は、幽谷も幾分凪いだ心境でいられた。完全に安心出来ないのは、幽谷が寝ずの番をすることに関羽がまた何かを言いに来るのではないかと、そんな一種の恐怖心を持っているからである。

 直立不動で後方の様子を窺う幽谷は、それもあって背後にも注意を払う。関羽が来た時、いつでも逃げられるように片足は半歩前に出ていた。

 が、やってきたのは幽谷の予想外の人物で。
 肩越しに振り返って、片目を眇めた。


「寝ずの番か?」

「はい」


 昨日の朝、見つかってしまった男だ。確か、趙雲と言ったような……気がする。
 向き直って拱手(きょうしゅ)すると、その後ろにも誰かがいるのに気が付いた。
 張飛と、蘇双という少年である。

 二人共何処か暗い面持ちで趙雲の後ろから幽谷を見つめていた。何かを言いたそうに見えるが、口は真一文字に引き結ばれたままだ。


「何か異常でも生じましたか」

「いや、そう言う訳ではない、ただ、この二人がお前に話があるというのでな」


 趙雲は柔和に笑って、横に退く。

 張飛と蘇双はぴくりと身体を震わせた。

 幽谷は、黙って首を傾ける。


「あの……」

「その、ありがとう。世平叔父のこと」

「……?」

「骨のことだよ。一緒に、連れて行けるから。それでオマエに礼を言おうと、」

「何故?」


 心底から問いかける。
 すると、二人はえっとなった。

 幽谷は不思議そうに首を傾けた。


「私共は、命により猫族の方々と、その意志をお守りしなければなりません。従って、礼を受ける理由がありません」

「……いや、だから、おっちゃんの骨を持ってきてくれただろ? 怪我してまで」

「それの何処に、その必要があるのでしょう」

「……」

「……面倒臭い」

「……?」


 蘇双がはあと嘆息する。片手で顔を覆って、俯いた。

 だが、幽谷にしてみれば至極当然のことをしたまでのことだ。
 むしろ、良い方法が思い付かずに狐狸一族の風習を押しつけたことにもなるのだから、咎められる心当たりはあれど礼を言われる理由は見当たらない。
 猫族の意志を守れと母を言った。だから、それに従い世平の骨を持ち帰っただけだった。世平の遺志を守る為に。

 だのに、どうして自分にわざわざ寝る間を無駄にしてまで謝意を示す必要があったのだろうか、不思議でならない。

 怪訝な顔をする少年二人を交互に見、幽谷は緩く瞬きを繰り返した。

 すると、趙雲が幽谷の肩に手を置いて笑いかけた。


「お前にとってはあれは当然のことなのかもしれないが、俺達にとってはとても喜ばしいことだったんだ。だから、こう言う時は素直に受け取って欲しい」

「はあ……」


 承伏しかねる顔で曖昧に返すと、張飛が雄叫びのような声を上げた。


「張飛、五月蠅い」

「だってよぉ……こいつ頭堅過ぎんだろ。命令だとか守る為にだとかさー。別にそんなんどうでも良いって」

「どうでも、良い?」

「オレ達は命令ってのは知らねえ。だから、ありがてえって思ったらありがとうって言うよ。お前はちょっと無神経なとこもあっけど、周泰も含めて良い奴みたいだし、恒浪牙のおっさんが言うんだったら信用して良いと思う。だからさ、そういう堅いの止めて、もうちょっと砕けようぜ? じゃねえとこっちも変に気を遣っちまう」

「……」


 張飛の言葉を噛み砕くように心の中で繰り返し、渋面を作る。


「……あれ?」

「張飛、この人多分理解出来てない」

「ああ、いえ……どう言ったことを仰っているのかは理解出来ています。ただ……私には、そういったことは難しくて」


 親しい人間はほぼいないので。
 そう言うと、周泰のことを挙げられる。だが、家族と友人とではまるで違う。

 狐狸一族は、一族で一つに家族だ。長を母としてまとまる彼らは皆幽谷の兄だ。周泰が末の弟であったのが、幽谷と、もう一人女が加わってその女と幽谷の間に周泰が収まった。彼だけが獣の耳を持たないが、それでも狐狸一族(かぞく)への思い入れは誰よりも強い自慢の弟だと、長兄は誇らしげに語っていた。
 家族であるだけで、随分と気安くなれるものだ。

 だが、赤の他人となれば話が違う。
 気安く話せない相手に自分はどうすれば良いのか、幽谷には全く分からなかった。今、母の命令で仕えている姫は大層寛恕な人物であるから、大概の無礼は許し、優しく何か悪かったのか教えてくれる。それによって大体のことは知識としては頭に入っているが、理解は出来ていなかった。

 幽谷は言葉少なにそのように答えると、張飛は顔を歪めてしまう。
 気を付けていたのだけれど、不快に思ったのかもしれない。
 猫族は祖先が母に縁のある英雄の子孫だ。特に無礼な振る舞いは絶対に許されない。そう思うのだけれど、度々失敗しているように思えてならなかった。

 周泰もそれは同じことなのに、寡黙ながらに周瑜とも仲が良く、猫族ともささくれ立たずに上手くやれている。

 本当に波風立たないように接するには何をどうすれば良いのか、分からなかった。
 逃げようかと一歩後ろに退がると、不意に張飛がずいっと幽谷に近付いてくる。反射的に数歩後退してしまった。


「……何でしょう」

「教えてもらってはいるんだったら、これから実践してけば良いじゃん」

「いえ、ですから、その相手が、」

「んじゃあ、今日からオレとお前、ダチってことにすれば?」

「……」


 顎が、落ちた。



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