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 その者は、母と旧知の中らしかった。
 燃え盛る炎の色を髪に溶かしたその者の肌は日に焦がされたか浅黒く、女にしては背が異様に高く、まだ幼かった彼はまるで細い身体で何百年と鮮やかな色で人々を魅了してきた花の化生なのではないかと思った。

 その者がいつ頃二人の鳥籠に現れたのか、彼は明確には覚えていない。
 気付けば彼女は当然のように、限られた人間しか入れない筈の鳥籠に入ってきた。彼女の訪問はいつも、唐突でありながら母の《調子》が良い時だった。
 母と他愛ない話で笑い合い、息子である彼にも貰い物の菓子を与え、世の中の色んな話を面白おかしく聞かせてくれた。

 旧知の仲だと言う割に、母は彼女の詳しい素性を知らなかった。その逆もまた然り。互いに名前と性格のみを知り、深く追求せずに長く親しくしていた。
 その者の名前は『鈴(りん)』と言った。それが本名ではないだろうとは、交流を続けるうちに何とは無しに察していたが、気にはならなかった。
 母もまた彼女に本名とは違う名前で呼ばれていたから、二人の間に何かしらがあるのかもしれないと思ったのもあるが、彼自身どうでも良い事だったからだ。
 鈴の話は、外の世界を知らない、いつもいつも薄暗く狭い空間の中で気の触れた母親を前に無力を噛み締める彼の安らぎであった。
 読み書きや算術に始まり、歴史や兵法は彼女から学んだ。

 あの頃の彼は、本当に楽しんでいた。

 それを今、彼は《思い出した》のだった。


「あれ、は……」


 鈴、なのか?
 信じられぬと呟いた曹操の視線の先には、九つの尻尾を持った紅の狐が立っている。

 彼の記憶にある母の友人と全く同じ女狐……。

 どうしてか、今の今まで忘れていた。母に纏わる暗い記憶は、それなりに思い出していた筈なのに、それらから鈴の存在だけがすっぽりと抜け落ちていた。
 彼女の姿を見た途端、そう言えばそういう存在がいたと頭の中の隅からひょっこりと出てきた記憶は、曹操にとって決して、忘れてしまう程の小さきことでも、忘れたいと思うような忌まわしいことでもなかった。
 懐旧の念に仄かに温かい胸中には、しかし困惑と疑問が蟠(わだかま)って重たく沈む。
 彼女から目が離せずにいると、


「うちの長がどうかした?」


 怪訝そうな声がかけられた。
 はっとして振り返った曹操は、いや、とかぶりを振る。

 眉根を寄せた封統は暫く曹操を探るように見据えたのち、肩をすくめて隣の人物を仰いだ。


「で、成り行きでこいつら助けたけれど、どうする? 諸葛亮」


 問われた諸葛亮は幾らか青ざめた顔を曹操が凝視していた鈴に向け、次に背後にうずくまる夏侯惇を振り返った。
 夏侯惇の右肩は深く斬り裂かれており、封統が術で止血はされているものの、激痛で身動きが出来ない。疲弊の色濃い顔には球のような汗が浮かんでは伝い落ち、痛みを堪えて噛み締める奥歯が微かに悲鳴を上げている。
 彼の側には、同様に疲弊しきった夏侯淵と賈栩の姿もある。

 曹操は自分を守る為に傷付き疲れきった部下を見、諸葛亮を見据えた。

 我らが命は、彼の心次第であった。

 すでに人のものではなくなった戦。
 怪異に後れを取り得物を手放した曹操は夏侯惇らと合流し、兵と共にこの混沌の坩堝(るつぼ)から離脱せんとした。
 だがあの孫家の姫君の皮を被った化け物は、この場に集った人間を逃す気は毛頭ないのか、突如として小さいながらに悍(おぞ)ましい異形共が襲いかかる。
 敵味方関係無く多くの兵が食い殺されていった。
 夏侯惇の怪我も、足を爪で裂かれ隙が出来た曹操を庇ってのこと。

 諸葛亮を連れた封統が曹操らを見つけなければ、船縁に引っ掛かった呉軍兵士のように、鎧をズタズタに引き裂かれ、肉を汚く食い荒らされていただろう。

 同時に同胞である封統の寝返りが敵の策だったと惨い事実を知らされたが、今はそれにかまけていられる状況ではない。

 今、自分達は窮地に立たされている。


「私を今ここで討ち取るか? ならば、そうすれば良い」


 凪いだ表情で言う。
 夏侯惇が剣を握り直したのを視界の端に認め、一睨みで制する。


「ただし、」

「自分の命と引き替えに臣下の命を助けろと?」


 諸葛亮の冷淡な声が後を引き継ぐ。顔色優れずとも冴え渡る怜悧な眼差しが、嘲笑うように曹操の身体に突き刺さる。
 臥龍と名高き賢人が、この好機を逃す筈も無い。
 もし逆の立場ならば――――今の己の立場に劉備がいたならば、何も言わさず首を刎(は)ねていただろう。
 同胞である関羽を我が手に抱く為に。


「仮に私がお前の望みを聞いたとして、少なくともそこの武将共は良しとすまい。そのまま主の後を追って命を絶てばさしたる問題にはなるまいが、仇討ちだとて劉備様に襲いかかる恐れのある将を生かしておくつもりは無い」


 諸葛亮の言葉を否定出来なかった。
 唯一、曹操軍ではまだ新参と言える賈栩は淡泊な男だ。彼だけは潔い態度を取るだろう。
 だが、夏侯惇、夏侯淵は違う。曹操が命じたとしても、曹操の首が討ち取られる姿を見て、忠誠心篤い二人が従うかどうか分からない。復讐に走る可能性はある。
 それで疎ましい劉備が殺せるならば、それでも――――と、囁く自分自身を即座に抑えられる程に、長く仕える二人の命を惜しむ情はある。


「臣下には、復讐を固く禁ずる。それに近い言動もだ。私が死した後にそれが破られた時には、私の首から鼻と耳を削ぎ落とし、市中に晒せ」

「な……っ!」

「曹操様!」


 血相を変えて夏侯惇が主に詰め寄ろうとするが、痛みに邪魔されて踏み出した途端に崩れ落ちてしまう。


「ほう……己の首に肉刑を課すか。晒せば数日無事かも分からんぞ」

「それで構わぬ」


 それならそれで、二人へかかる抑止力が強まって良い。
 曹操は即答する。

 諸葛亮は見定めるような目で曹操を見据え、封統に何か耳打ちした。

 封統は一瞬不快そうな顔をしたが、


「そりゃ、持てる手札が多いに越したことは無いけどさー」


 溜息混じりに肩をすくめた。


「猫族の奴らが、反発するんじゃない?」

「異常事態だ。ここで恩を売ることには嫌でも納得してもらわねばならん」


 封統は半眼になって諸葛亮をじとりと見つめ、これ見よがしに大袈裟な溜息をついた。


「あっそ。僕、どうなっても知ーらない」

「……恩を売るだと?」


 彼らの会話が想定と違う方へ向かっているのを察し、曹操は柳眉を顰めた。
 言葉から察するに、ここで曹操を討つ意思は無いらしい。
 その理由については憶測も立つが、曹操は異常な事態が起きていると諸葛亮の言葉に同意はしても、全容を把握していない。
 向こうの船がどんな状況であるのか、全く分からない。


「何が起こっているのだ……」


 己の記憶にある情報を脳内で整理し、曹操はぼそりと呟いた。


「我々はそれを今から確かめに行く」


 諸葛亮は早口に言い、鋭い視線で曹操に決断を促してくる。

 与えられた時間は無い。窮地に立ち、更に狐狸一族の長に強い関心を寄せている曹操にそんなものを与える必要が無いと、諸葛亮は分かっているのだ。
 曹操はもう一度鈴を見た。

 驚いた。

 一瞬だけだったが、彼女がこちらを見ていたのだ。気の所為ではない。


「封統……お前は先程、あの女性を『うちの長』と言ったな」

「ん。そりゃあ、明らかに成長しまくってるけど、尻尾の色とか数とか外見見れば甘寧と同一人物だって分かるでしょ」

「そうか」


 だが私は、長坂で少女の姿の彼女を見ても、鈴のことを思い出さなかった。
 曹操は鈴をじっと見つめ、緩く瞬きを繰り返し、


「……私も共に行こう」


 諸葛亮を振り返った。



―第九章・了―



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 曹操と甘寧の関係を出せるか分からなかったんですが、ここで入れられて良かった……。

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