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 体が軽いのは、甘寧が力を取り戻したからだ。
 幽谷の器は本来とまではいかないが、大部分の神力を、そして己の姿を取り戻した影響を受けている。

 それは残された蒋欽も同じだろう。
 悔しげで、寂しげな顔の中に、覚悟の色も見える狐狸一族の長兄は、母にゆっくりと近付いた。


「……お袋」

「ああ、分かってるさ」


 ここで何も為せなければ、あいつらの覚悟が無駄になる。
 甘寧は徐(おもむろ)に顔を上げ片手を軽く薙いだ。
 たったそれだけの些細な動作一つで、この船を中心に澱んだ空気が、瞬く間に浄化された。
 同時に幽谷らに襲い掛かっていた小さき異形らも、耳障りな悲鳴を上げて消え去った。

 今まさに躍りかかられていた異形が目前で消え去った周瑜は困惑して周りを見渡した。
 彼が驚いているのは、そのことだけではあるまい。
 関羽も、劉備達も、茫然として己の身体を見下ろしている。

 彼らの困惑を解いたのは泉沈だ。


「甘寧の神気がこの場を浄化したのさ。玉藻の力を与えられたとはいえ、弱き小妖が全盛期に近い甘寧の神気に触れて存在を保っていられる訳がない。それと同じで、金眼の血を持つ君達も玉藻の支配を免れたんだ。身体が軽いだろう? 特に、君は」


 そう言って、泉沈が含みのある視線を向けたのは周瑜だ。
 周瑜は顔を強張らせた。咄嗟に胸の、肺の辺りを押さえたのは無意識だろう。

 顔色の良くなった関羽がきょとんとして泉沈と周瑜を交互に見比べているのに気付き、幽谷はそれ以上口にしないでくれとの意思を込めて泉沈を見る。

 泉沈もその点は弁えてくれており、幽谷と周瑜へ頷いてみせた。

 周瑜は疑わしげに彼を睨んでいたが、関羽が立ち上がったのに口を噤んだ。
 気を利かせた恒浪牙が問いたげに周瑜を見つめる関羽の身体を反転させ、劉備らの方へそっと押しやった。


「関羽。お前は劉備の所に行ってろ」

「え、ええ……」


 有無を言わさぬ口調で促され関羽が周瑜を気にしつつも仲間のもとへ小走りに戻っていく。

 彼女が合流したのを確かめてから、幽谷は小声で周瑜に問いかけた。


「本当に大丈夫なのですか?」

「ああ……調子が良い時以上に良くなってる」


 頷く周瑜は、苦虫を噛み潰したような顔である。


「今まで生きてきて、ここまで軽いことなんて無かった」

「それはそうさ。君達一族が継いできた病は、長い時間をかけて金眼の呪いと強く結び付いてしまった。だから、甘寧の神気に触れている間は病も大人しくなる」


 泉沈も、小声で説明する。

 ならば少なくともこの場では、周瑜は完治に近い状態に在るということだ。
 だが、長い間病気に苛まれていた彼は今までに無かった状態だと言った。突然の回復に感覚が追いつかず逆に動きに支障が出る可能性は危惧すべきである。

 周瑜の浮かない表情から察するに、幽谷の懸念は杞憂ではなさそうだ。

 ややもすれば泉沈と共闘しつつ周瑜が感覚に慣れるまで援護する必要がある。彼のことだ、すぐに順応出来るだろう。

 幽谷は周瑜から視線を外し、今に至ってもなお仕掛けて来ない陽炎を見た。

 少し驚いた。

 小妖らに力を分け与えたのち倒れていた筈の玉藻が、身を起こしていたのである。
 甘寧の姿を見つめ驚愕の表情を浮かべて、微かに震えているようにも見える。

 いつの間に目を覚まして……いえ。ただ、多くの力を無数の弱妖に分け与えた為に身体が動けないだけだったのかもしれないわ。

 そんな姉を、甘寧が無表情に真っ直ぐ見据えている。玉藻の動きを待っているのか、何も言わず、微動だにせず。
 しかし、やがて呆れ果てた溜息をついてぼやくのである。


「小さいな。本当に小さい」


 言葉に込められたのは深い失望。

 玉藻がざっと青ざめた。


「力を取り戻す前は全く気付かなかったが、アンタは弱体化してる。三百年前のアンタなら、今のオレでは領域を奪えなかっただろう」

「……!」

「原因は……分かっていないんだろうな。今のアンタが、覚えている筈がない」


 もう一度、溜息。

 玉藻の顔が、絶望に染まるのが幽谷の目にもはっきりと見て取れた。
 まだ家族に対する情が確かに残っている彼女にとって、妹に失望されることは――――。


『足リナイ。マダマダ足リナイ』


「!」


 不意に聞こえた小さな声。次いで聞こえた、


 子 供 の 無 邪 気 な 笑 い 声。


 幽谷の脳裏に先程の異形の言葉が蘇る。


『教エテアゲタンダ。モウ、戻レナインダヨッテ。ダッテ僕ノオ母サンニナッタンダカラ、何処ニモ行ッチャ駄目ダヨネ。コノ人ハモウ、僕ダケノ、オ母サンナンダ』


 このまま玉藻と甘寧の溝を深めることは、異形が玉藻を手に入れる最悪の事態に繋がってしまう。
 そう思った瞬間、


――――今すぐ彼女に触れなさい!!


 幽谷は駆け出していた。誰かに強く背中を押されたように身体が勝手に前へ出て、誰かに操られているかのように足が勝手に甲板を蹴った。

 気付いた周瑜が手を伸ばすのをするりと避け、我が意思ではなく幽谷は玉藻に迫った。


「っ馬鹿、何をしやがる! 幽谷!! 戻れ!!」


 恒浪牙が怒鳴るが、幽谷は従わない。


「幽谷!!」


 視界の端に赤い九尾が駆けつけているのを捉え、陽炎を庇うようにこちらに向き直ったの玉藻へ、手を伸ばした。
 傷付ける武器を持たぬ、素手を。
 狐狸一族の幽谷は玉藻を封じる為に作られた器であり、理由は分からないが玉藻の記憶を有している。
 だからただ彼女に触れるだけで良いと、触れれば分かると、己の内側から湧き上がる確信が幽谷を動かした。

 玉藻は異形に危害を加えられると思っている。異形を守る為に幽谷に向けて暴風を放った。

 だが、遅い。
 指先が彼女の肩に触れた瞬間、


――――本当に世話が焼けるんだから。


「……っ!」


 流れ込んで来る。

 これは……この人の記憶。

 玉藻の、記憶の一部――――彼女の思いが、流れ込んで来る。
 ほんの少しだけ。
 ほんの少しだけでも、胸から溢れ出そうな程に強く、温かい。
 そこに玉藻が異形を庇う理由が在った。

 そういうことだったのか。
 やはり、この方は甘寧様達のことも、ちゃんと……。
 ほっとした。光明が見えた。
 まだ、彼女達の絆は戻せるのだと。

 幽谷は肩から力を抜き、吐息を漏らした。


「あなたにとって、この異形は大事なことをやり直す為の存在だったのですね」

「――――ッ!!」


 納得した幽谷の呟きに、玉藻は目を剥いた。唇をわななかせ、幽谷に更に強い暴風を叩きつける。

 踏ん張り切れずに後ろへ吹き飛ばされた幽谷の身体は、駆けつけた甘寧に抱き留められた。


「幽谷! オマエ何を勝手なことを!」

「申し訳ありません。ですが、彼女があの異形にこだわる理由が」


 甘寧に伝えようとした幽谷の言葉は、玉藻の叫びと、身体を容易く攫ってしまう程の暴風に遮られた。

 こちらが踏ん張って堪え凌ぐ間に、彼女が頭を抱えて髪を振り乱し、陽炎と共に船縁へ後退する。
 そして、


「妾は……ただ……!」


 苦しげな声を残し、河へ身を投げた。



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