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ひとつ。
またひとつ。
自分の中に戻ってくる。
『ただいま』『ごめんなさい』と、声無き声で囁いて。
それらは大昔、大勢の命に分け与えた我が力の――――我が魂の一欠片。
己の一部が元の場所へ戻ってくる。
別の命を支えていた力が殊の外すんなりと魂に融合する感覚の、なんと心地好いこと。さながら母親の腕の中で眠っているような、優しい安心感に包まれた。
汚泥の如く濃密な邪気を受け、あんなにも気怠かった身体が嘘のように軽くなっていく。
指一本動かすのさえ億劫だったのに、今では走ることも苦ではなかろう。
意識にかかっていた靄も薄くなていく。
妖気にあてられ衰弱していた身体が回復――――否、《元の状態へ少し戻った》のだ。
その、意味は……。
‡‡‡
「――――ッ!?」
甘寧は血の気が引くと共に飛び起きた。唐突に起き上がっても眩暈はしない。
自身が孫権らに支えられていることに気付くがそれどころではない。
体調が良くなっている。
身体が軽すぎる。
そして、
「力が戻ってきた……だと……?」
何故すぐに気付かなかったのだ。
かの感覚は、戦の直前にも感じたのに。
嘗て自分から引き千切った一部が我が身に戻ってきた――――その意味とは。
甘寧はひゅっと息を吸い。
「っ蒋欽!!」
がなるように長男を呼んだ。
「お袋……」
蒋欽は悲しげな、しかし何かを覚悟したよ面持ちで甘寧を見下ろしてくる。
それは、肯定だった。
甘寧は青ざめ立ち上がる。
そして、見てしまった。
甲板に臥す、我が子達を。
「あ、ああ……っ!」
がらがら、がら。
足元が、轟音立てて崩れて行くような錯覚に襲われた。
全身から血の気が引き、体温が急速に下がっていくかのようだ。
身体が力を失いかけ、思わず右足で床を思い切り踏み付けた。
「てめぇら……また勝手なことを!!」
いつオレが許可をした!?
怒りのあまり、全身の毛が、九本の尾が、一斉に逆立つ。
周囲に揺らめく彼女が失った筈の神気。
「お袋……あいつらは……」
言い淀む彼が続けて何を言おうとしたのかは分かっている。
弟達はお袋の為に死ぬことを選んだ。
そう。彼らが死を選んだのは母の力を返す為。自分が不甲斐ない所為なのだ。
甘寧は軋むくらい奥歯を噛み締めた。
九尾の力を失った器は、瞬く間に崩れ真っ白な砂山となった。
息子達だった砂に駆け寄る甘寧に別れを告げるように、さあぁと音を立て、風に乗って船を去っていく。
甘寧は、その場に座り込んだ。
「……何と愚かなことを……っ!」
「愚かじゃねえよ。全然。愚かな訳がない」
「俺達の未練なんてとうの昔に無くなった。お袋に貰った二度目の人生は、充分楽しかった。本当に満足してる」
満足しているから、今、お袋が死んじまう前に恩を返さないといけないんだ。
そうはきはきと口々に言うのは、川面に立つ息子達。
甘寧は彼らのこの場にそぐわぬ明るい声音に胸を貫かれるような痛みを覚えた。
こいつらもかよ。
「お前らも……オレを」
置いていくのか。
姉上のように。
弟のように。
狐狸一族のように。
オレの側から、消えていく。
結局、自分の手の中には、何も残らないのか。
けれど、
「何言ってんだよお袋。置いていくんじゃなくて、戻るんだよ」
「は……」
小馬鹿にするように、息子の一人。
それに同意する兄弟。
甘寧は彼らのあっけらかんとした態度にぽかんとした。
「お袋、ガキみてぇに寂しがりだもんなー」
「俺達の魂に結合させた力を返すんだから、全てじゃねえだろうけど、俺達も一緒にお袋の中に戻るのは自然のことだろー」
「お袋の中から見張っておかねえと、孫権様達で遊び過ぎるかもしれねえし」
常と変わらぬ晴れやかな笑い声をあげる彼らに、死を恐れる様子は全くない。
『お袋がどんだけ孤独を怖がってるのかよーく知ってる俺達が、お袋を独りにする訳ないだろ』
不意に、彼らの中にいない息子の声が聞こえた。
先程自ら命を絶った息子の声が、己の内側から。
甘寧は己の胸に手を当てた。
『ただいま』
『ごめんなさい』
あの、声は。
あの声の主は。
「まさか……」
力と魂が結合したまま、オレの中に……?
そう思った直後、背中の、右の肩甲骨の下の辺りがじんわりと温かくなる。誰かに手を当てられいるような感覚だ。
まるで、甘寧の心の声を肯定するかのよう。
「だから、お袋がそんな顔をすることなんてねえんだよ」
一人の狐狸一族がそう言い己の首に刃を当てたのを皮切りに、
蒋欽以外の狐狸一族が命を絶っていった。
彼らの死に顔は、あまりにも明るく、新たな門出を喜ぶようだった。
‡‡‡
『兄貴。兄貴は俺達と一緒に死のうとしてくれるなよ』
『外でお袋に振り回される孫権様達を兄貴が助けてやんねーと』
弟達は、長兄たる自分にそう言って、快活に笑った。
彼らの晴れやかな表情に未練は無く、未だ未練のある自分には眩しくて眩しくて直視出来なかった。
長兄だけがずっとずっと未練を抱いて生きているのを弟達は知っていた。
だから、これは長兄へ長年の《後悔》と向き合う最後の機会だと発破をかけているのだった。
初めは人間による戦だった筈が、異形が絡み、多くの者が己の背負う重荷と対峙する場となった。
その多くの者に、自分も含まれている。
『この盃(さかずき)に誓い、俺はこの武を以て兄者の背中を守ろうぞ。あの月に誓い、守るべき兄者より先には死なぬ』
遠い遠い昔に交わした約束。自分が違えてしまった約束。
果たせなかった約束を、ここで果たすことが出来るのかもしれない――――。
命を絶ち甘寧の中に魂ごと戻っていく弟達を一人一人強く見つめ、蒋欽は拳を握り締める。
最後に残った弟が蒋欽を見た。
しっかりやれよ、と言わんばかりに歯を向いてにっかと笑って川に沈んで行った。
波紋と飛沫が止んだ頃、空気がきんと張り詰める。
玉藻の妖気で澱んだ空気が凍りついたようになり、急速に澄み渡っていく。突如一点から一気に噴き出した神気に浄化されていく。
蒋欽は、母を見た。
「えと……甘寧……さま……?」
戸惑いがちに呼んだのは、尚香。彼女が甘寧を見つめる眼差しには、困惑と畏怖が揺らめいている。孫権や、離れた場所から甘寧を凝視する幽谷や劉備ら猫族も同様である。
それも無理のないことである。
何せ、そこに少女はいないのだから。
彼らの視線の先には、長身痩躯の妙齢の女性が、悠然と佇んでいる。
燃えるように赤い髪を掻き分けて生えた狐の耳は真っ直ぐ天を指し、豊かな九本の尻尾は風を受けてゆらゆらと揺れていた。
全身をうっすらと覆う金色の霧は、可視化する程に濃密な彼女の神気。本来彼女が持っていた神気だ。
「姉上……懐かしきお姿に……!」
感極まったように興覇が声を震わせるのを一瞥し、泉沈が昔を思い返すように目元を和ませた。
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