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※注意



「馬鹿な……あれにそんな力は――――」


 言い止し、泉沈がはっと息を呑んだ。

 恒浪牙の結界を、異形は壊せない筈。

 だのに、壊された。
 ならば誰が――――この問いには、泉沈の視線が答えた。

 まさか……彼が零しながら見たのは、先程まで一切の反応を見せていなかった玉藻であった。

 彼女の顔からは手が下ろされており、ふらりとよろめきながら立ち上がった。
 結界が破壊されたことで、再び陽炎となって戻った異形を背負って。


「玉藻。君はこの期に及んでまだあれを……」


 呆れを含んだ呟きに、玉藻がやおら顔を上げる。


「させぬ……」


 まるで地の底を這う怪物の唸り声のような呟き。
 玉藻は泉沈を強く見据え、


「この子は誰にも殺させぬ……!」

「玉藻……!」


 総身から放たれる大いなる力の波動。
 それを一身に受けたのは泉沈だった。
 咄嗟の判断でその身を結界で包んだのを更に恒浪牙が結界を重ねる。

 それでも、結界は一瞬にして砕け散り泉沈の身体に無数の裂傷が走った。両の腕で庇った為無傷で済んだ顔は、悲痛に歪んでいる。

 泉沈にのみ向けられた攻撃だったが故に難を逃れた幽谷は周りにいた者達にも影響が無かったことを視認し――――狐狸一族の腕の中でぐったりとしていた関羽を見た時には肝が凍りついたが、元々消耗していた身体を操られ為身体を支える力も尽きてしまっただけのようだ――――玉藻に視線を戻す。
 身を貫かん程の敵意を、友人である筈の泉沈へ向けている。

 彼女は何故、異形を庇うようなことを……。


「君はなんて愚かな人だ」


 泉沈が、失望の声を零した。 


「あれだけ悔いていたのに……君はここまで来ても家族に償うことを選べないのか。そこまで、君は弱かったのか」


 こんなことになるなら、君は甘寧と興覇を育てるべきではなかった。彼らの家族になるべきではなかった。
 軽蔑する泉沈に、玉藻がよろめく。頭を抱えて歯軋りする。

 違う……とか細い声が歯の隙間から抜ける。


「妾、は……あの子達と……」


 その時だ。
 陽炎が膨張した。

 玉藻の身体が大きく反り返った。大口を開けて両手を前へ伸ばして、奇怪な声を上げた。

 恒浪牙が前に立ち、大きく結界を展開する。

 泉沈は目を細めて玉藻……否、異形を睨む。
 玉藻の奇声は徐々に小さくなっていき、やがて、かくんと力を失い崩れ落ちた。

 今度は一体何をするつもりなのか。
 さっと周囲に視線を巡らせる幽谷へ、泉沈が声を張り上げた。


「興覇!! 蒋欽!!」

「! ぬ……!?」


 蒋欽が何かに気付き背後を振り返った。
 瞬間、顔の間近で赤い炎が弾ける。
 床に落下したそれは炎に包まれて耳障りな甲高い悲鳴を上げて激しく藻掻く。鎮火する頃には聞き苦しい苦悶の悲鳴は止み、幽谷の掌に収まる大きさの人型の炭塊が残った。

 それを蒋欽が蹴り飛ばして遠ざける。


「あれは……」


 それが何かを探る暇も無く、幽谷は身を翻し匕首を振るった。
 黒い何かを両断した。肉と骨を断ったような感触を得た。

 ビタンと叩き付けられたそれは、小さな、小さな、やせ細った赤子に似た真っ黒な生き物。目は飛び出し唇は鳥のように突き出し、腹が異様に膨れ上がっている。
 幽谷が両断したのは左足の付け根であった。肌の割に人間と同じ色の切断面は脈動に合わせて膨れては引っ込み、黒い血を噴き出している。
 それは俯せて小鳥の足程にも細い両手と右足で床を叩き、幽谷へ近付こうとする。耳まで裂けた大口を開けると、茨のような牙がずらりと並んでいるのが見え、その奥に二股の舌が蠢いていた。

 なんて、気持ち悪い生き物――――いいや、これは《生き物》ではない。この世に存在して良いモノではない。
 吐き気がして思わず足で踏み潰す。

 その側で周瑜が得物で異形を切り捨てた。
 幽谷が切ったモノとは違う形状だ。人型だが四つ足で歩き、頭部が赤紫色の花となっている。

 それだけには留まらぬ。
 船縁をよじ登り、或いは飛び越え、船上に小さな異形が集まってくるのだ。

 結界を張れない孫権らや劉備らは、蒋欽や狐狸一族、興覇が何とか近付けぬようにしているが、後から後から襲ってくる。

 水上の狐狸一族達も異形の襲撃を受けていた。船上に集うそれらを減らそうともしてくれているが、どうやら水の中から出てきているらしいそれらはきりが無い。



「これは……!?」

「おい、華佗! 結界を張ってるんじゃねえのか!?」

「張ってる! 一等堅い奴を張ってるのに擦り抜けて来てやがんだよっ!」


 苛立った恒浪牙はぐったりとした関羽を庇いながら異形共を殴り飛ばす狐狸一族に怒鳴り返して拳で襲いかかる蜥蜴(とかげ)型の異形を追い払う。


「泉沈殿! これは一体……」


 ちっと音がした。
 恒浪牙ではない。
 その音は泉沈から聞こえた。


「玉藻の力をその辺の弱い妖に分け与えたんだ。厖大(ぼうだい)な量の力を万遍なく……形を持たぬモノにまで」

「白銅や玉藻の妖気に釣られて集まってきた奴らも相当な数だろ! 俺にすら関知出来ない奴らも含めてどんだけここに集まってやがると思ってんだ!?」

「分からない。与えられた玉藻の力は狐玉と同じ効果を持ってるんだろう。ほんの少しでも玉藻の力を得た彼らは、華佗の結界なんて容易く抜けられる」


 泉沈が片手を振って恒浪牙の結界に薄く水の膜を張る。彼の結界だ。
 それでも、異形を弾くには至らず、張り付いて牙や爪を立てて破壊を試みている。

 引っ切りなしに張り付く異形で、結界の表面が埋め尽くされていく。周りの様子が見えなくなる。
 視界が狭まることと自分達だけが結界に守られていることに焦燥を覚えた幽谷は、飛び出そうとするが予想していたらしい恒浪牙に肩を掴まれ制された。


「何故だ、玉藻。何故甘寧達よりもそれを優先する……っ? あの言葉は嘘だったと言うのか……」

「泉沈!! 考え事は後にしろ! このままだと庇うもんが多過ぎて、」

「華佗!!」


 狐狸一族が呼んだ。
 恒浪牙が舌打ちして振り返り――――表情を強張らせた。

 狐狸一族は笑って己の首に刃を押し当てていた。

 幽谷は瞠目した。


「こんな時に何をっ!?」

「見ての通りだよ」


 船上の他の狐狸一族も頷き、足元に落ちていたどちらの兵士の物とも知れぬ剣を同様に首に添える。

 見ての通り――――それでは自決をしようとしている風にしか見えないではないか!


「見ての通りってオマエら、何考えてる!?」


 周瑜も慌てて彼らの腕を掴んで離そうとするが、彼は笑って周瑜を幽谷へ押しやる。


「邪魔しないでくれよ。周瑜。これは俺達皆で話し合って決めたことだ」

「お前ら……!」

「お袋が《万全》なら、この場をどうにか出来る」


 『万全なら』
 狐狸一族が発した単語に幽谷はぞっとした。
 
 甘寧が生み出した狐狸一族は、彼女の力を割いて器を作られている。
 幽谷の器もまた同じ。
 彼らは今この場で命を絶ち――――。

 甘寧様に……力を返すおつもりなのだわ……。

 それは全ての狐狸一族(あに)が覚悟している。
 胸がざわつく。狐狸一族の幽谷の心が荒れている。彼女にとっては出来たばかりの家族を大勢失おうと言うのだから、黙っていられる訳もない。
 私が止めなくては、彼女の代わりに。

 されど。


「ごめんな。幽谷」

「え……」


 狐狸一族が末妹の心情を察したかのようにこちらへ笑いかけた。
 彼女の記憶に多く残る、屈託の無い笑みだった。

 途端、幽谷は声が続かなくなってしまう。


「俺らの代わりに、最後までお袋と蒋欽兄貴を頼むな」

「待っ――――」


 にっかと快活な笑みのまま。



 彼らは、己が喉を迷い無く裂いたのである。



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