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 いびつな身体の男の子が、腰に抱き着いた。
 瞬間、幽谷の全身を貫くような悪寒が走り抜ける。反射的に突き飛ばそうと肩に手を置くが、どんなに力を込めても彼の身体はぴくりともしない。

 子供とは思えない力で幽谷に張り付いているそれは、嬉しそうに笑う。


「ねえ、綺麗なお姉ちゃん。お姉ちゃんは僕の何になってくれる?」


 声が、姿を見せる前とだいぶ違っている。今の方が《人間らしくて》聞き取りやすい。
 異形は幽谷の腹に頬擦りし、とても安らいだ顔をする。母親に甘える子供の表情だ。……全身継ぎ接ぎだらけでなければ、愛らしかっただろうに。

 おぞましいと言える形相に警戒感が強まる幽谷は、しかし内側から勝手に湧き出してくる温かな感情に困惑した。

 これは、幽谷も知っている感情。
 《慈愛》、だ――――。

 私が、この子に愛情を持ち始めている? まさか、そんな筈はない。
 この子は人間ではない。
 玉藻を狂わせた程の、最悪の異形なのだ。

 こんな、穏やかな感情を抱く訳がない。


「僕のお姉さんかな? それとも、伯母さん、叔母さんかな?」

「私、は……」


 彼の声は、頭の中にするりと入り込む。
 脳に優しく染み渡り、幽谷の意識をそう……っと――――。


「――――ッ!」


 違う!
 幽谷は異形の子供を睨みつけた。


「あなたはそうやって、玉藻様を支配していたのですね」

「えへ」


 ぺろりと、舌を出して笑った異形。無邪気な笑顔には、真っ赤な瞳には、底の知れない純粋な狂気が宿る。

 ぞっとした。
 この子は、人の心に容易く侵入して洗脳するのだわ。

 危うく幽谷も何も知らぬまま洗脳を受けるところだった。


「お姉ちゃん、あの人よりも抵抗出来るんだね。あの人よりも弱いのに。まるで何かに守られてるみたいだなぁ……」


 異形の言葉に、一人の女性の姿が思い浮かぶ。四霊幽谷の基となった女性の姿が。
 胸に手を当てて黙り込んだ幽谷に、異形は首を傾けた。

 このままくっついていると、今度こそ洗脳されるかもしれない。
 幽谷は毅然と言い放った。


「離れなさい」

「えー、やだー」

「離れなさい」


 語気を強めて繰り返すと、ようやっと不満そうに唇を尖らせながら離れた。

 二、三歩離れて正面に立つ異形を真っ直ぐに見据え、


「その姿は?」

「みんなから借りた物を頑張ってくっつけて作ったの。これで、僕もちゃんと人間でしょう?」

「それはつまり、あなたは人間ではないと言うことですか?」


 異形はあっと口を両手で塞いだ。肩をすくめて目を真ん丸に見開いた。


「もう一度、訊ねます。あなたは何者ですか」

「……そいつは、数億の人々の負の想念が凝固して自我を持った、呪いの塊みたいな存在さ」


 幽谷の問いに答えたのは、周瑜を抑える狐狸一族。にこにこ笑う異形を睨みながら、語り出す。


「金属や宝石のように、永い時をかけて生まれたそいつは、気まぐれに世に出ては無邪気に呪いを振り撒いた。そして一人の美しい娘、妲己に取り憑き王を籠絡して妃となると、思う存分残虐な遊びに耽り、大勢の臣民を苦しめた。妲己が王と共に滅びると、彼は再び闇に隠れ、気まぐれに呪いを振り撒いては暇を潰していた」


 ふふっと異形が笑う。懐かしげに目を細め、狐狸一族を見つめて、止める気はないらしい。


「そいつが狙うのは貧しくとも、人々が精一杯生きて、小さな幸せを喜ぶような穏やかな村ばかりだった。幸せを踏みにじるのが何よりも愉しいらしく、お袋の姉さんが入り浸ってた村も標的になった」

「そして……彼女が、その身に封じたということですね」

「ああ、そうだよ。そいつは《家族》に興味を持った。己にはいないものだったから。だから、倫理を優しく諭し悪しき者から善(よ)き者に変えようと接触してきたお袋の姉さんに、母親になって欲しいと頼み、快く受け入れた彼女を――――」

「良く知ってるなぁ」


 異形がのんびりと呟いた直後、幽谷の視界から失せた。

 一瞬の出来事だった。

 にんまり笑った異形が、己の素性を語る狐狸一族に覆いかぶさるように襲い掛かる。


「っ、危ない!」


 叫んだ直後に瞠目した。
 何故、笑っているの……。

 狐狸一族は異形を振り返り、穏やかに微笑んでいた。武骨な体格にはとても不釣り合いな、柔和な女性的な微笑み――――既視感を覚えた。

 異形の手が狐狸一族の頭部へ伸び、


「グギャッ」


 見えぬ何かに弾かれた。
 醜い悲鳴を上げて異形は狐狸一族から距離を取る。無邪気で残忍な笑顔が一転、仇敵を見つけたような形相で狐狸一族を睨めつける。

 狐狸一族が周瑜の頭をぽんと叩いてゆっくりと立ち上がる。

 周瑜も、己の身体を見下ろしながら起き上がった。


「身体が、動く……」

「僕が解除してあげたからねえ。もう暫くは、あいつの力を受けないだろう」


 狐狸一族の口調が、がらりと変わった。
 先程と同じようなふんわりとした微笑みを浮かべているが、その微笑みが底冷えするような鋭い威圧感を放っている。

 異形が憎らしげに舌打ちした。


「お前ぇ……!」

「やあ、お久し振り。予定よりだいぶ遅くて申し訳ないと思ったけど、君に再会出来たのは予想外の収穫だったな。遅くなって良かったかもしれない」


 親しげに狐狸一族が異形に近付けば、異形はその分後退る。
 態度が打って変わった双方に、その場にいる者は困惑する。

 幽谷だけは、困惑だけでなく、微かな懐かしさを感じていた。
 こんな調子で話す、底の知れない人物を、一人知っているのだけれど……。


「やっと見つけた。いやー、まさか玉藻に取り憑いているとは思わなかったなぁ。驚いた、驚いた」


 幽谷はつかの間逡巡し、やがて意を決して話し掛けた。


「あの……人違いでしたら申し訳ないのですが、もしやあなたは、泉沈殿……ではありませんか?」


 狐狸一族が幽谷に笑いかけた刹那。

 屈強な体躯が溶け落ちた。

 隆起した筋肉を形成していたものは色の付いた水となって床に染み込んでいく。
 不要な物が剥がれ落ちて現れた姿に、幽谷は懐かしさから目元を和ませた。

 漆黒の聖人という言葉が良く似合う、中性的な人物が慈愛も魔性も兼ね備えた微笑みを幽谷に向けている。

 四霊霊亀は朗らかに幽谷へ手を振った。


「興覇は予想がつくけれど、まさか再び君に会えるなんて思いも寄らなかったな」

「私もです。とは言いましても、私が出ているのは今この時だけです」


 泉沈は鷹揚に頷いた。


「ああ、分かっているさ。甘寧から聞いていたからね。いやあ、本当に懐かしい。嬉しいなぁ。封蘭にも後で会いに行きたいんだ。身も心も成長していると聞いて、是非見てみたくてね」

「彼女も喜びます」

「そうだねぇ。そうだと良いなぁ」


 状況を忘れている訳でもあるまいに、泉沈は心底嬉しそうだ。
 この場で懐かしむ余裕など無いのだが、彼は幽谷と会話をしながら異形の些細な動向すら決して見逃していない。異形が動けば即座に仕掛けるだろう。彼はそういう人だ。


「……という訳だから、さっさと君を始末して、決着を付けよう。それが、玉藻を止めるという本来の目的にも繋がるようだしね」


 それは、異形にかけられた言葉。

 異形は大きく身体を跳ね上がらせ奇声を上げた。身を屈め泉沈に再び襲い掛かるのかと思いきや後ろに大きく跳躍し、玉藻へ取り憑き――――また見えぬものに弾かれる。
 床に叩き付けられた異形は歯軋りし泉沈を睨め上げた。


「何をした!?」

「僕ではないよ」

「は!?」

「……俺だよ」


 ここでやっと、恒浪牙が起き上がる。恨めしく泉沈を睨みながら溜息をついた。


「ったく、一方的に声を送り込んで来やがったと思えば、合図するまでずっと寝たフリしてろとか……いつから狐狸一族に混ざってやがった」

「ははは、すまないね。華佗。でも君の結界なら、玉藻は無理でも彼を弾けるのは分かっていたから。ここに集まる時に彼らに頼んで協力してもらったんだよ。最初から僕が来てしまうと玉藻の不意を突けないからね」


 他の狐狸一族が全く驚いていないのは、そういうことだったのか。

 泉沈は口でこそ笑っているが、異形へ向けられた目は酷く冷めている。

 異形は泉沈に怯えている。玉藻を操り、世を掻き乱した程の存在が。
 戸惑って異形を見つめていると、泉沈が小さく笑った。


「彼はね、他人に取り憑いて、洗脳して意のままに操る。永年かけて無数の負の想念が凝り固まった割にはそれしか出来ないんだけど、その能力が厄介でねぇ。妖力が無いから自分の身体も作れない彼は弱すぎて僕でもある程度近付かないと気配を察知出来ないし、その能力で周りの認識をずらしながら、陽炎のように揺らめいて闇に紛れるものだから、ずっと見つけられないでいた」


 見つけられない異形が、まさか玉藻に取り憑いていたとへ思っていなかったと、彼自身が先程そう言っていた。
 あの玉藻が、生まれた経緯の割に洗脳し操る程度しか出来ない存在に取り憑かれるなど、仙界の者は夢にも思わなかっただろう。そして、あんなにも慈しんでいた人間の世を妖共を率いて蹂躙したなどとは。
 玉藻に視線をやる。まだ、彼女は動かない。

 泉沈は大仰に溜息をついた。


「九尾の長女が、何とも不甲斐ない話だけどね。その存在を彼女も知っていたのに。そも、玉藻が下界に下りたのだって、彼を探す目的だったんだ。それをまんまと取り憑かれ、後にかの厄災となって父や弟妹を苦しめるなんて……友として呆れ果てるよ」


 一瞬だけ友へ向けられた目も、冷たい。


「まあ、今は玉藻のことはどうでも良い。思わぬところで永年の仕事が片付けられそうだから、さっさと済ませてしまおう。幽谷。手伝ってもらえるかな」

「私で良ければ」

「うん。この中で使えそうなのは君と華佗くらいだからね。興覇と蒋欽は、甘寧や猫族、それと孫家の者達に付いて――――」


 不意に泉沈は言葉を止めた。柔和な笑顔が消える。
 彼が玉藻を見たのと同時に恒浪牙が泉沈をがなるように呼んだ。


「おい、結界が壊れるぞ!」

「何だって――――」


 パキン……と。
 何かが割れる音がした。



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