22
笑い声が聞こえる。
だが目に見える人物の全て、深刻な堅い面持ちである。笑っている者など一人もいない。
幽谷は玉藻を――――否、玉藻の背後で揺らめく陽炎を凝視する。
その陽炎は、誰の目にも映っているようだ。
玉藻は両手で顔を覆っており一言も発しない。その背中にゆらゆらと立ち上る陽炎が、透明でありながら不気味な存在感を醸(かも)している。
彼女に、何かが憑いている。姿は見えないが、ソレは恐ろしい程に無邪気に笑う子供の声をしている。
取り憑くモノによって彼女は操られているのかもしれない。
玉藻という、強大な力を持つ存在を操れるモノ――――更なる難敵に、一体どう対処すれば良いのか。
幽谷は唇を引き結んだ。
頭には撤退の二文字。
一度体制を立て直し対策を講じてから迎え撃つ……だけでは到底足りるまい。
勝てるのか?
その問いに、いいや勝つのだとも返せない。
幾ら思案を巡らせようと、勝算は一切見当たらない。
それ以前に、この場から全員が逃げおおせることが果たして出来るのか?
否定するように笑い声が一際大きく響く。
すぐ側で周瑜が舌打ちした。周りを見渡す彼は疎ましげだ。
「この耳障りな笑い声……あの陽炎は一体何なんだ」
「分かりません。ただ、あれがずっと彼女を操っていたのだろうとは推測されますが……」
あっと声を上げた。
陽炎がまた消えたのだ。
消える瞬間を見た周瑜も幽谷を引き寄せて周りを警戒する。孫権や劉備を呼んで彼らにも注意を促した。
今度は何をしかけてくるのか。
正体不明、姿も見えぬモノが誰を標的に選ぶのかも分からない。
そんな状況だから、床に伏している天仙も起き上がれないのであろう。
「周瑜殿。孫権様達のお側に戻って下さい。その方が――――」
ぞわ。
「ッ!! 避けろ!」
周瑜が幽谷の身体を抱き締め床に倒れ込む。
体勢を崩した半瞬後に頭上を風が横に薙いだ。
下敷きになってくれた周瑜の身体から転がり落ちた幽谷は、顔の真横に突き立てられた見覚えのある刃に写る己の顔にぞっとした。
これは、まさか!
見上げれば苦しげな呻きが聞こえる。
「そんな……!」
「う……ぅ……っ」
幽谷、と。
苦悶の表情の彼女が縋るように絞り出した声は掠れていた。
彼女の後ろに広がる青空、そこに浮かぶ真っ白な雲が、ゆらゆらと揺らめいている。
今度は関羽様に取り憑くなんて!!
困惑して関羽を仰いでいると、
「逃げて幽谷!!」
尚香の悲鳴に弾かれるように幽谷は起き上がりその場を離れた。
危機一髪である。
関羽から間合いを取った幽谷を追い縋る刃がもう一つ。
今度は周瑜だ。
彼に声をかける暇も無く興覇が張飛らを呼ぶ声が上がる。
興覇が劉備を、狐狸一族達が張飛や蘇双、関定を床に押さえ付けていた。
蒋欽は甘寧を孫権の側に下ろし、彼らを守りながら周囲の様子を窺っている。
「嘘でしょう」
思わず、漏れた。
周瑜にも張飛達にも、背中に陽炎が覆いかぶさっているのだ。
戦慄した。
一度に複数の人間を操れるの!?
「だ……駄目……っ身体が、勝手に……!」
「ち……っくしょう……! 何で、言うこと……」
関羽と周瑜が言いながら、幽谷へ刃を向ける。
幽谷は身構えた。
操られているのは猫族だけ。
まさか金眼の呪いを介して操っている……!?
『楽シイネ。楽シイネ。楽シイネ』
「……っ何処が!」
忌ま忌ましい声に堪らず吐き捨てる。
周瑜が一歩踏み込み幽谷に肉薄、辛そうに歪んだ顔を近付けて刃を振るう。
続けて、関羽が連続突きからの大振り。
二人共、無理が出来ない身体であると言うのに……!
彼らを攻撃する訳にも行かず防戦、回避一方の状況下で幽谷は打開策を必死に探った。
「幽谷! 今行くぞ!」
蒋欽の大音声が聞こえる。
が、幽谷は彼の加勢を拒んだ。
「いいえ! あなたはそのまま彼らの側から離れないで下さい!!」
自ら船縁に移動し、二人を睨む。
「馬鹿……! 何で、そこに……っ」
「逃げて、お願い……!」
幽谷は一瞬背後を振り返り、「いいえ」二人を見据えた。
「大丈夫です」
「俺達が押さえてやるからな!」
船上に飛び乗ってきた幾つもの影が、二人に踊りかかる。
咄嗟に迎撃の構えを取った二人を容易く床に押さえ込んだのは、水上にいた狐狸一族である。
彼らとは合図も何も交わしていなかったし、そもそも幽谷は彼らを見もしていなかったが、船縁に寄れば彼らが助けてくれるだろうと思ったのだ。これは多分、狐狸一族の幽谷の、兄を信頼しているからこその思考であろう。
『チェー。ミンナ捕マッチャッタ……』
二人の背中から陽炎が消える。
劉備達を確認すれば彼らも疲弊の濃い顔に安堵を滲ませて興覇達に助け起こされている。陽炎は無い。
玉藻の背後に戻っている。
幽谷は目を細め、意を決して陽炎に近付いた。
周瑜や蒋欽が咎めるように呼ぶが、黙殺。
「……あなたは、一体何者なのですか」
笑い声が返ってくる。
『ダーレデショウ』
大人をからかうような、無邪気な愛らしい謎かけ。
幽谷は眉目をぴくりとも動かさずに陽炎を真っ直ぐに見据えた。
応じない構えを見せると、不満そうな声が響く。
『ムー。オ姉チャン、綺麗ダケドスッゴクツマンナイ』
「つまらなくて結構。私はあなたの『遊び』に付き合う気は毛頭ございません。三度は言いません。あなたは一体何者ですか」
声を低くして再び問いかける。
陽炎はつかの間の沈黙の後、ぶわりと膨れ上がった――――ように見えた。
そして、玉藻がゆうらりとよろめきながら立ち上がる。
幽谷に向き直った彼女は顔から両手を下ろし、焦点の定まらぬ虚ろな目を幽谷へ向ける。
『僕ハネ、コノ人ノネ、息子ナンダヨ』
すんなりと答えた。
「息子?」
『ソウ。ダッテ、オ母サンニナッテクレルッテ言ッタンダ。ダカラ僕ハコノ人ノ息子ナノ』
玉藻は何も言葉を発しない。
甘寧を見やっても、孫権に支えられて座っているのがやっとの彼女は青ざめ、苦しげに目を伏せている。
これでは真偽の確かめようが無い。
無い、が――――。
『アノ人ハ脆イカラ使イヤスイノ。脆イカラスグ壊レチャウノ』
母親に対してこんな無情な言葉を使えるものか。
「あなたの言動は、とても母親に対するものとは思えませんが」
途端に、陽炎の声が拗ねたようになる。
『ダッテオ母サン、僕ノコト消ソウトシタンダモン。一緒ニイテクレルッテ約束シタノニ。嘘ツイタンダ』
「嘘をついたから、母親にあんなことをさせたと?」
『教エテアゲタンダ。モウ、戻レナインダヨッテ。ダッテ僕ノオ母サンニナッタンダカラ、何処ニモ行ッチャ駄目ダヨネ』
コノ人ハモウ、僕ダケノ、オ母サンナンダ――――。
陽炎はきゃらきゃらと笑う。何とも愉しそうな笑い声。
背筋が凍るようだ。
幽谷は僅かに顎を引いた。
「……姿を、見せたらどうです?」
『ウン。良イヨー』
陽炎は、即座に応じた。
揺らめきが消える。
幽谷は眼球を動かして陽炎の行方を探す――――。
「代わりに遊んでね」
「!」
下!?
一歩下がって視線を落とす。
そこに男の子がいた。
大勢の子供の一部を継ぎ接ぎにした、いびつな男の子が、抱っこをねだるようにこちらに両手を伸ばしている。
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