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「……う、そだ」


 ぽつりと、玉藻が呟いた。
 狐狸一族が眉間に皺を寄せ言葉を続けようとするのを拒むように、


「黙れ、黙れ、黙れ! そのような嘘、妾は信じぬぞ!!」


 金切り声で怒鳴り付けた。
 大妖の怒りが大気を震わせる。波紋のように広がる痛々しい程の振動を全身に感じた。

 咄嗟に周瑜の盾になり怒りの波動を受け止めた幽谷は、軽く驚いた。
 彼女は今までより激しく動揺している。憎らしげ、というよりは酷く焦った顔で、声を張り上げて否定しているのだ。


「そうだ……嘘に決まっておる……! 信じぬぞ、妾は、そのような嘘を信じぬぞ!」


 それは、他者の言葉を突っぱねているようには聞こえなかった。自分に言い聞かせているような印象を抱かせる。

 蒋欽が玉藻を責め立てた時、彼女は確かに動揺した。だが幽谷が蒋欽の言葉を肯定した時には冷静だった。
 それが、今。
 狐狸一族の話で、ここまでの動揺を見せているのだ。

 何故、ここまで狼狽えているのか。
 幽谷の話には動揺しなかったのならば、蒋欽や狐狸一族の兄達の話の中にあって幽谷の話に無かったものということになる。
 もしや――――甘寧様のことに反応している?

 嘘だと言い聞かせているのは、甘寧のことというのだろうか。
 妹の何を否定している?
 そんなにも頑なに。

 その時、幽谷は不意に頭の片隅に違和感を覚える。
 突然異物がくっついたような、そんな感覚だ。反射的に頭に手をやったが、物理的なものではない。異物は頭の中だ。

 それに意識を向けた瞬間に、また口が勝手に動いた。


「……本当は、分かっている」

「――――ッ!!」


 ビクン、と。
 玉藻の身体が大きく跳ね上がった。



‡‡‡




「そなた……今度は何を言うつもりだ」


 必死の形相で睨まれ、幽谷は一歩後退する。
 が、言葉を口にした途端次から次へと言葉が浮かんで来るのを、止めようとは思わなかった。


「甘寧が寂しがっていることも、自分が悉(ことごと)く選択を間違ってしまったことも、全て分かっていて、自分のことを優先し続けた」


 玉藻の目が大きく見開かれた。引き攣った悲鳴が紅唇の隙間から漏れた。


「やめろ!」

「妾を封じた時、あの子がどれだけ苦しんだかも、どれだけ心の中で叫んでいたかも」

「違う! 違う……やめろ……!!」


 更に狼狽した玉藻が耳を押さえよろよろと幽谷から離れようとする。
 その様子から見て、自分の頭に浮かび、口から流れるように出てくる言葉は、間違いではないらしい。

 だが、おかしい。
 どうして、私にこんなことが分かるのだろう。
 器に甘寧の記憶が残っているのは理解できる。
 でも玉藻のことが分かるのはどうして?

 この器が玉藻を封じる目的で作られたものだから?

 あまりにも突然で、あまりに多くの情報が器から溢れ出している不可解な状況に、幽谷は困惑した。
 けれど、この湧き出る言葉をここで止めてはならないと思った。


「妾は、間違った……あの日可愛い妹が、泣くのを堪えるような顔をしたのに、妾は気付いてやれずに隠れ里へ帰ってしまった。それ以来、あの子はもう妾を茶や散歩に誘おうとしなくなった。暇を作り、妾から探したが、あの子は妾の前に姿を見せなくなった。そして、妾はそのまま――――これはきっと、報いなのだろう」


 金眼ら妖を従えて人間を襲う邪悪に堕ちたのも、妹に姉を討たせることになったのも、弟が我が配下によって命を散らしたのも、父を今もなお嘆かせるのも――――妾が今まで選択を間違ってきた報いだったのだ。
 幽谷が言い終えたその直後である。

 玉藻の背後が陽炎のように揺らめいた。


「やめろぉぉォぉォォ!!」


 玉藻が絶叫する。悲痛な叫び声は空を切り裂き、その場にいる者の精神を攻撃する。
 激しい拒絶を示した玉藻は、喘ぐように同じ言葉を繰り返す。

 『違う』と。

 先程とは打って変わった弱々しい姿を晒す玉藻。
 動揺の影響か彼女から放たれる妖気が徐々に薄まっていくのを感じる。

 と、玉藻が静かになった。

 次の動きを警戒し、立ち上がった周瑜を手で制し玉藻を注視する。一度彼を肩越しに振り返って確認すると、妖気が収まったお陰か顔色が幾分か良くなっている。それもあって立ち上がれたのだろう。
 彼は、酷く苛立っているように見えた。

 問おうとして、前方で衣擦れの音が聞こえた。
 即座に玉藻へ視線を戻した次の瞬間、彼女の背後がまた歪んだ。
 その陽炎が、玉藻の背中に覆いかぶさる人の形に見えたのは気の所為だろうか。
 目を凝らそうとすると陽炎は消えた。


「今のは、」


『邪魔ヲシナイデ……』


「!」


 幽谷は咄嗟に背後を振り返った。

 周瑜が小さく声を上げて驚いた。


「! な、何だ、いきなり」

「今、声が」

「声?」


 周りを見渡す。
 だが、何もいない。

 小さな子供の、どちらの性別か判別がつかない高い声だった。
 耳元で、至近距離で囁かれた。
 けれども側には周瑜のみ。周りにも子供などいる筈もない。

 空耳……というにはあまりにもはっきりと聞こえた。

 幽谷はもう一度周りを見渡し、


「幽谷、後ろだ!!」


 劉備が叫びを受け弾かれたようにすぐに身体を反転させる。
 幽谷の後ろには周瑜が――――。


「――――あぐっ!?」

「幽谷!?」


 周瑜の驚愕に染まった顔が見えるも一瞬、首を強い圧迫感に襲われ幽谷は後ろへよろめいた。手をやると、見えないのに首に何かが巻き付いている感触。

 これは……手?
 小さな手だ。
 幼い子供の――――。


『邪魔ヲシナイデ。邪魔ヲシナイデ。邪魔ヲシナイデ』


「くそっ!! 次から次へと!」

「く……ぅ……っ!」


 周瑜が焦った様子で幽谷の首を絞める何かを剥がそうとする。だが、その圧力は増すばかりだ。


「この……っ幽谷を放せ!!」


『セッカク、愉シクナルトコロダッタノニ。アノ人ハ脆イカラ使イヤスイノ。脆イカラスグ壊レチャウノ。邪魔ヲシナイデ。愉シイコトハ良イコトナンダカラ』


 おぞましいくらいに無邪気な声だ。

 息が苦しい。

 みしり、と。
 骨が軋む嫌な感覚に背筋が冷えた。

 このままでは……!


「幽谷! 今助けるぞ!」

「ぐ……っ」


 興覇も加わり二人がかりでようやっと見えない手が離れる。

 激しく咳込みながら崩れ落ちたところを周瑜に抱き留められた幽谷は、間近に子供の甲高い笑い声を聞いた。
 もう一度玉藻を見ると、同じくして陽炎が彼女に被さった。

 私の首を絞めたのはあの陽炎だ。


「今のは一体……」


 落ち着いてきた幽谷は深呼吸をして、目を細めた。


「……玉藻様に、何か憑いています」

「憑いてるって……まさか背中の、」


 周瑜の声に重なり、また笑い声が聞こえる。

 事態は、誰が思うよりもずっと混沌としているのではないか。
 幽谷は冷や汗を流した。



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