19
胸が張り裂けそうなくらいに痛い。
身体が鉛のように重い。
幽谷は我が身のうちで荒れ狂う激情に喘いだ。
悲しい。
悔しい。
憎い。
あの人に何と言って詫びれば良いだろう。
守れなかった。
守ると決めたのに。
あの人が戻ってくるまで、狐狸一族はオレが何としても守ると父に誓ったのに!!
『金眼ぇぇっ! 貴様あぁぁぁっ!!』
憎悪と怒りに染まった怒号が幽谷の意識を圧倒的な衝撃となって殴りつけてくる。
《内側》から。
まるで自分の感情であるかのように鮮明なそれに、幽谷は息を詰まらせた。
悲しいのはあまりにも大勢を喪ってしまったから。
悔しいのは守ると誓っておきながら間に合わなかったから。
憎いのは奴が幼い子供がずっと押し殺してきた《願い》を利用したから。
怒号の主を嘲笑う冷たい哄笑が、己の中に反響する。
あの神聖なる空間で生きてきた者達の命を啜った赤い口を大きく開けて、血肉のこびりついた牙を覗かせて、奴は嗤(わら)う。
奴は至極満足そうだ。
腹が満たされたからではない。
彼らの力を体内に吸収したからではない。
奴の大いなる主の《未練》のもととなるものを破壊したからだ。
これで彼女は《こちら側》から外れまい。永遠に我らが尊き指導者となるのだ。
そうだ、もう一つ。
お前の仕業としてやろう。
そうなれば、姉弟の情に流される心配も無い。
あの方は我らのものとなる。
奴はそう語った。
あの方は奴らのもの。
その言葉が胸に突き刺さる。
この種の痛みには慣れきっていた。
今まで何度も何度も感じてきた痛みだ。
でも今感じている痛みは、段違いに苦しかった。
奥歯がぎしぎしと鈍く痛むのは、強く噛み締めているからか。
……誰が?
私ではない。
であれば――――。
『クソ猫が……あの人をこれ以上汚すんじゃねえぇぇっ!!』
――――ああ、そうか。
そういうことか。
これは記憶だ。
私はこの器に入り込んだ彼女の記憶を感じているのだ。
彼女は……甘寧は、狐狸一族が滅んだ理由を知っていた。
知っていて玉藻の憎悪を誤解だと否定していない。
記憶が器に紛れ込んでいるなど、本人は全く知らないだろう。
こんな大事なこと、知っていたらすぐにでも対処をしている筈だもの。
この状況で、この状態……私、今隙だらけなのでは?
心臓の辺りがすっと冷えた。
早く目覚めなければと焦った幽谷は、しかしまた内側から聞こえてくる声に踏み止まった。
『人間の所為だ。全て……人間なんぞに関わるから、あの人はああなってしまったんだ』
『姉上……人間は悪くない。悪いのは俺と大姉上だ。我らが近くにい過ぎたからこそ、邪悪なるモノ共に村が目を付けられてしまったのだ』
甘寧と、相手は興覇か。
『ああ、そうか。そんなにも人間が大切か。人間の為なら天帝をも蔑ろにするってか。仙界での役目を全てオレ一人に押し付けても構わないってか!』
『! あ、姉上。俺達は父を蔑ろにするつもりも、あなたに押し付けるつもりも……ただ……っ、姉上! お待ち下さい! 姉上!』
『姉上の一件でオレは忙しいんだ。お前はさっさと《家族》のもとへ戻るが良い。くれぐれも、姉上と同じ轍は踏んでくれるなよ。お前まで邪悪なるモノに成り下がれば、オレもお咎め無しという訳にもいくまい』
『姉上……』
腹立たしい。
憎らしい。
それは人間への激しい嫌悪感。
そして、心の奥底から隙を窺いにじり寄って来る諦念。
この会話は、先程とは時間が違っている。狐狸一族が滅びるよりも遥か昔のことだ。
湧き上がって来るのは血が沸騰しそうな程の怒り。そして身も凍えそうな寂しさ。相反する二つの感情が、心の中を掻き乱す。
九尾三姉妹の次女、甘寧。
あなたは――――。
‡‡‡
「――――幽谷!!」
「っ!」
突如鼓膜を殴りつけた大音声に幽谷は意識を引き戻された。
目の前には玉藻――――ではない。男性が立っている。
彼が何者か認識するよりも早く血の臭いに気付いた。
遅れて、自身を庇うように立っているのが周瑜だと知る。
そして、いやに己の目元が冷えていることも。
指で撫でると濡れていた。
多分、器に残った甘寧の感情の影響だろう。
「敵の前で何呆けてんだ、それでも犀家の人間か!?」
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
周瑜の顔色は酷い。今もなお玉藻の影響に耐えているのだろう。
幽谷は彼の隣に並んだ。
その時に血の臭いのもとが彼の右太腿であることを知る。
得物で自ら刺して幽谷を助けに来てくれたらしい。
……これで、本当に自覚していないのよね。
未だ広がり続ける血の染みを見つめながら、一瞬、状況にそぐわぬことを思ってしまった。
意識が離れる前より少し離れた場所に立つ玉藻は腕を組み、周瑜を鬱陶しそうに睨んでいる。
幽谷を見て軽く目を瞠った。
「どうした。幽谷。目に何か入ったか」
「いえ……目というよりは頭に入ってきました、と言った方が正しいかと」
首を横に振る幽谷に、玉藻は「無理はするな」と気遣う。
玉藻の中で、淡華の存在は一体どれ程大きいのだろう。
……私の言葉ならば、聞いてくれるだろうか。
彼女の誤解を解けるだろうか。
眼球のみを動かして甘寧を見れば、蒋欽の腕の中でぐったりとしている。玉藻の妖気による衰弱もだいぶ進行しているようだ。
甘寧は、玉藻に狐狸一族が滅んだ真実を知らせぬまま、憎まれたまま玉藻を討たんとしていた。
諦めていたからだ。
姉と弟にとって、何よりも大事なのは姉弟ではなく人間……人間と作った家族なのだと。
《オレ》という中途半端な存在に、二人はほんの少しでも心を傾けてはくれないのだと。
せめて父である天帝のことだけは気にかけてくれていると信じ、それならもうそれだけで良いと、自らは何も望むないと彼女は諦めた。
だが、それでも。
彼女が狐狸一族を作り直そうとしたのは。
「狐狸一族を滅ぼしたのは甘寧様ではありません。蒋欽殿の仰る通り、金眼です」
「……そなたもか」
玉藻が眉間に皺を寄せた。
彼女の機嫌を損ねるだけでも相当な恐怖を感じる。
特に周瑜は、幽谷以上だろう。
「周瑜殿。私の後ろに」
「……っさっき呆けたばかりの奴が馬鹿言うな。戦えなくとも壁ぐらいにはなれる」
「ですが、あなた方猫族は私以上に彼女の支配を受けやすいのでは」
「また正気に戻せば良い」
……また刺すつもりか。
幽谷は溜息を漏らした。
もう一人の幽谷は、彼の先天的な疾患を案じている。
我に返る為とは言え自傷行為を繰り返す中に発作でも起きたら、彼を助ける術は無い。
幽谷は目を細め、無言で周瑜の脇腹に肘鉄を打ち込んだ。
「うぐっ!?」
「そこで大人しくしていて下さいまし」
崩れ落ちる周瑜を一瞥して彼の前へ進み出る。
幽谷は深呼吸を一つして、口を開いた。
「蒋欽殿のお言葉は、半分が正しく、もう半分は間違っております。金眼は独断で狐狸一族の子供を騙して彼らの住まう空間に侵入し、全てを殺(あや)め尽くしたのです。あなたが、狐狸一族や妹弟への情へ囚われ邪悪な妖達の指導者として判断が鈍麻せぬように」
「……その話が本当だとして、何故あの女狐は否定せぬ」
「それは、」
「それはあんたらが悪いんだろうが!」
「っ!」
突如会話に強引に入り込んできた怒鳴り声。
玉藻が忌ま忌ましそうに唇を歪めた。
「紛い物が増えたか」
紛い物――――狐狸一族。
彼女が呟くと同時に、多くの狐狸一族が姿を現した。
船上に十数人、船の周りには残りの狐狸一族が水上に立っている。
恐らくは、全員がこの場に集まっていた。
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