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「紛い物……紛い物か。確かに貴様にはそう見えるのだろう」


 低い声は地鳴りのように恐ろしく、彼の怒りの程を周囲に知らしめる。
 初めて見る蒋欽の激しい憤りは、さながら噴火間近の火山を彷彿とさせた。

 幽谷は味方ですら押し潰してしまう気迫に全身が粟立った。

 蒋欽は甘寧をそっと抱き上げ、目を伏せた。眉間に深い皺が刻まれ、こめかみにはぼこりと血管が浮き上がっている。
 その身から放たれる怒気はほんの一部に過ぎない。
 一体どれ程の憤懣(ふんまん)が、今、彼の中で渦巻いているのか。


「我らは本来の狐狸一族ではない。本物はすでに滅びてしまった」


 感情を押し殺した声が、淡々と告げる。

 幽谷は瞠目した。


『妾のみならず我が狐狸一族を殺し、紛い物を従えよって……』


 彼の言葉は、玉尾の言葉を裏付けたのである。


「っ、……し、蒋欽……」


 甘寧が息子を止める。

 だが、


「すまぬ、お袋。儂は、あやつのことが赦せんのだ」


 蒋欽は言葉を続けるのだ。


「狐狸一族は元々、九尾玉藻が永い時の中に出会った人間達との間に作った混血の子らと、九尾三姉弟を慕う狐仙など多くの仙人達が集まって生まれた一族。だが、この世が幾千幾万の妖に蹂躙された頃、劉光が金眼を討ち果たすその前に、狐狸一族は滅びてしまった」


 蒋欽の声が徐々に震えていく。
 甘寧が止めろとか細く制止するも、彼はやはり言葉を止めないのだ。
 いや、止めないばかりか、


「そして、お袋は何もかもを捨て置いて真っ先に今の狐狸一族を創り上げた――――その経緯も理由も知らぬ貴様が、お袋を憎み、我らを否定するか!! その資格が貴様にあろうか!!」


 貴様が《自ら》金眼に命じて狐狸一族を襲わせたのではないか!!


 鼓膜を容赦なく殴りつけてくる怒号に肌が痺れた。
 幽谷は片目を眇め奥歯を噛み締めて呻きを押し殺す。
 そうしながら、蒋欽の口から放たれる事実に強い困惑を覚えた。

 聞き捨てならない事実を蒋欽は告げ続ける。

 本来の狐狸一族は滅びた。
――――祖である玉藻から命じられた金眼によって。
 そしてその後に甘寧が新たに狐狸一族を作り出した。それが蒋欽らだ。

 狐狸一族は元々玉藻の子孫と、仙人の集まりだった。
 では、甘寧も自ら人間と交わり今の狐狸一族を創り上げたのか?


「……違う」


 我知らず、幽谷は呟いた。
 幸い誰の耳にも届かなかったようだ。
 誰の注目も浴びずに済んだ幽谷は、自身の内側に意識を向けた。

 幽谷の胸のうちがはっきりと否定する。
 どうしてなのかは分からない。
 だが自分には分かる。


 玉藻とは違うやり方で、彼女は今の狐狸一族を創った――――創って《しまった》のだと。


 どうして知る筈もないことを確信しているのか理由を探す幽谷の耳が、玉藻の声を拾った。


「何……だと……金眼が妾の命を受けて……?」


 信じられないとでも言わんばかりに呟く。
 彼女は眉間に皺を寄せ、怪訝そうに蒋欽を睨んでいた。
 動揺していると、一目で分かった。

 当然だ。

 玉藻は狐狸一族を滅ぼしたのは甘寧であるとしている。
 だが、蒋欽の話ではそれは甘寧ではなく玉藻から命を受けた金眼であるというのだ。

 一体どちらが真実なのか。

 動揺を見せた玉藻はしかし、すぐに気を取り直した。鼻を鳴らして侮蔑の眼差しで蒋欽を睨んだ。


「適当なことを言って、妾を惑わそうとでも言うのか」

「貴様は何処まで……」


 蒋欽は眦を決した。舌鋒鋭く彼女を責め立てた。


「遠きことと知らぬフリでもするつもりか! 母親でありながら、貴様は里で貴様を待つ無垢な子らを捨てた! 金眼に娘を、息子を喰わせたのだ!!」

「妾を騙すには考えが足らぬ。我が子らを、狐狸一族を滅ぼしたのは甘寧、そこな女狐ぞ!!」


 胸がざわざわと落ち着かない。
 何かを言いたい。
 胸のうちから、そんな衝動が幽谷を駆り立てる。
 けれども何を言えば良いのかは分からなかった。

 私に何を言わせたいの?
 一体何が言わせたがっているの?


「妾を惑わそうとしても無駄だ。妾は全て知っておる。何の取り柄も持たぬ半端な甘寧が妾を妬み、世の動乱に紛れ狐狸一族を滅ぼしたのだ」


 嘲笑う玉藻の言葉が連なれば連なる程、胸のざわめきは強まっていく。
 ざわめきが口にも伝染したのか、何だかむずむずする。


「妾の愛しい子らは皆、甘寧を恨み、妾に詫びながら死んで逝った。さぞ無念であったろう……妾が必ずや仇を討ち、」

「違う!」


 突如として口が勝手に動いた。

 華佗を除いた全員の意識がこちらへ向く。


「幽谷……」


 茫然と名を呼ぶのは尚香であった。

 まだ暫く様子を窺うつもりだった幽谷は内心しまったと口を噤むが、むずむずは止まらない。尚も勝手に何か言葉を紡ごうとしている。持ち主である筈の幽谷には飛び出しかけている言葉が全く分からない。

 仕方なく徐(おもむろ)に起き上がった幽谷へ、玉藻が驚きの声をかけた。


「目覚めたのか。術の効きが甘かったか……」

「……」


 幽谷は息をついて立ち上がり、唇を真一文字に引き結んだ。
 状況を悪い方向へ持っていかないことを願いつつ、唇をそっと解いた。


「違います」


 零れたのは、さっきと同じ言葉。ただ、語気が穏やかになっているだけ。

 玉藻は不愉快そうに眉目を歪めた。
 蒋欽を一瞥し、幽谷へ近付いてくる。

 幽谷は距離を取ろうと後ろへ下がるが、その気配を察した玉藻が一瞬で目前に転移した。


「二度も同じことを言わずとも良い」

「……っ」


 玉藻の手が頬を撫でる。
 肌にびりりとした微かな刺激が走る。

 周瑜が幽谷を呼んだが、間近に迫られてはもう逃げられない。だが、彼の声が陶酔しかけた理性を引き戻してくれた。


「違うと言うたな。まさかそなたも、妾の言葉を否定するつもりか」

「それ、は……」

「答えよ。妾の言葉は何が間違っておる?」

「あ……」


 顔が迫る。
 鼻先が擦れ合う程に近くなる。
 玉藻の吐息が触れた。

 背筋がぞくぞくする。


「答えよ。妾は間違っておるのか」


 駄目。
 この器では、私は不利だ。

 玉藻の妹である甘寧が作ったこの肉体では。

 また口が勝手に動く。
 違う力によって。


「……ま、ちが」


 しかし。

――――キイィィン。


「……うっ!?」


 不意に鼓膜を突き刺すような痛みと耳鳴りに襲われ幽谷はよろめき座り込んだ。
 耳を押さえて呻いていた筈が、


「間違って、います。あなたの、知っていることは……」


 苦しげな声で、告げた。

 瞬間、頭の中で何かが弾ける――――。



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