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『この子の名前、決めましたわ』
愛らしい娘は謁見の間に駆け込むなり嬉しそうにはしゃいだ声を響かせた。
彼女の腕の中には、今朝方生まれたばかりの赤ん坊がふにゃふにゃと笑っている。
彼は破顔して玉座を立ち、娘に歩み寄る。
さる報告の途中であった仙女も、彼女の様子を微笑ましく思い、三人に拱手して静かに間を辞した。
この度生まれた赤ん坊も女だった。娘と同じ狐の耳と九本の尻尾を持って生まれた。
肌は褐色で、うっすら生えた髪や毛は赤いが、顔立ちは赤ん坊の頃の娘にそっくりだ。
『この子を抱いて、お庭をゆっくりと歩いていると、不意に思いついたのです』
『何という名が浮かんだのか、朕(ちん)にも教えておくれ』
彼は春の日差しのように暖かい慈愛が胸を膨らませるのを愛しく思いながら、娘の輝く笑顔を見守る。
娘はやや子を大事そうに抱き締め、踊るように一回転。美しい黒髪が紗幕の如(ごと)軽やかに舞った。
やや子がきゃらきゃらと楽しそうに笑う。
それを見て娘は更に更に嬉しそうに笑う。
二人の愛娘を見る彼も、幸福感で蕩けそうになった。
退屈で寂しい時間をこんなにも賑やかに、華やかに彩ったたった二つの命。
誰よりも何よりも、我が命よりも、ずっと尊い。
この褐色の肌に赤毛の赤ん坊が大きくなったら、どんな子に育つだろうか。
きっと快活な子になるのではなかろうかと彼は未来を想像し、顔がにやけてしまう。
元気に育ちすぎて、長女と一緒に振り回されるのもなかなかに楽しそうだ。
おしとやかに育って長女と女性だけの内緒話をされて寂しい思いをするのも、父親ならではの感覚だろう。昔のつまらない孤独とは全然違う。
どんな性格に育っても、長女と同じくらい愛おしい。
『焦らさないで父に教えておくれ。朕も、その子を名前で呼びたいのだ』
『ええ。勿論。一番にお教えしたいと思って、急いで参ったのですから』
幸せそうな笑顔が、彼の世界を鮮やかにしてくれる。
小さな紅唇から零れる、世界を更に色付かせてくれるだろう愛すべき名は、
『甘寧。それがこの子に相応しい名です――――』
『おお、甘寧か。甘寧と申すのか。では、明日にでも皆を集めよう』
『はい』
二人の嬉しそうな笑い声が、この場の空気をより和ませた。
これからあの小さくて清らかな命は、周りから沢山の愛情を注がれて育って行くのだ。
《私》は側で微笑ましい彼らを眺めながら、首を傾げる。
……かんねい。甘寧。
何処かで聞いたことのある名前だ。
赤子を見れば、思い出せるかしら。
そう思って二人に近付こうすると、後ろから腕を優しく握られた。
『あんたねぇ……いつまでここにいるつもりよ』
手伝ってあげるから早く戻りなさい。
呆れたようで幼子を叱るような、優しい声はひどく懐かしかった。
‡‡‡
幽谷が瞼を開けた時、目の前には甘寧が仰臥していた。
口の端から血を流し、悔しげに上を睨んでいる。
彼女の胸には足が乗っている。人間と獣が混ざったような甘寧の足と違う、白くて細い作り物めいた足だ。
玉藻が、実の妹を踏み付け憎らしげに見下している。
「……っく……!」
「弱いな、甘寧」
無力を嘲る美しき凶妖は、少女の身体をぐりぐりと踏みにじる。
苦悶に顔が歪む甘寧。
私はどれだけ気を失っていたのだろう……。
幽谷は玉藻に悟られぬように視線を巡らせた。
恒浪牙はまだ倒れている。彼はまだ覚醒していない。
蒋欽に守られる孫権達や劉備達の無事を確認して、心の中でほっとした。
だが、彼らは圧倒的な禍々(まがまが)しい存在に、未だ身動きが取れないでいる。
特に猫族は、劉備は、己の身体に流れる血の本能で彼女へ服従しようとしているのだろう。
劉備達の側に立つ興覇はまだ動けるようだが、甘寧が玉藻に踏み付けられているこの状況、下手には動けない。
玉藻が今は甘寧と興覇に意識を向けているから無事なだけで、憎い弟妹を始末したその次は、彼らだ。
彼女のことだ、劉備達のことなど道端の小石を蹴って転がすように、あっさり殺してしまうだろう。
「っ、がは……っああ」
甘寧が苦しげに喘ぐ。
心臓の辺りを足に強く圧迫され、目を剥いて奥歯を噛み締める。
玉藻が鼻で笑った。
「どうした? 妾を殺すのではなかったのか? 妾の身体に傷一つつけておらぬではないか」
「く……っ」
「甘寧。悔しいか? だがその程度、妾の絶望に比べれば……」
甘寧の胸から足を除け、蹴り上げる。
さして力を込めたようには見えなかったが、小さな身体は飛び、叩きつけられた。
背中を強か打ち付けた甘寧は、呻きながら腕に力を込め起き上がろうとする。
玉藻は鼻で笑ってこめかみを再び蹴りつける。転がるのを許さず、何度も何度も踏み付け骨を砕く。
「っが、……っ! う、っァ、ぐ! ぅ……っ、っ、」
「貴様はすぐに死なせぬぞ。妾のみならず我が狐狸一族を殺し、紛い物を従えよって……」
甘寧様が狐狸一族を殺して……何? 紛い物?
玉藻の言葉が引っ掛かったものの、それよりも呻きすらも出てこなくなった甘寧に幽谷は冷や汗を流した。
甘寧の状態を思えば玉藻に敵う筈もないとは分かっていたが、玉藻には傷一つ無ければ消耗した様子も見られない。
絶望的な状況だ。
幽谷は玉藻の視線が甘寧から逸れた瞬間目を伏せ思案を巡らせた。すぐに起きて襲いかかるべきか、効果的な隙を待つべきか……。
だが、
「ぬおおぉぉぉぉっ!!」
重厚な雄叫びが幽谷の耳を殴りつける。
はっと目を開けると、玉藻に巨体が突進しているではないか。
蒋欽殿!
孫権達を守っていた筈の蒋欽が玉藻に当て身をし、避けられてよろめいたのを素早く立て直した。
「……紛い物が、作り主を助けにでも来たか」
唾棄するように言う玉藻。
蒋欽はいかつい顔を厳しく歪め玉藻を睨んだ。
幽谷は努めて冷静に、隙を窺う。
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