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 玉藻の玉のような肌に、傷一つ付けることは至難の業だ。
 こちらの動きの全てを把握している訳でもあるまいに、攻撃の悉(ことごと)くがいとも容易く避けられてしまう。

 この小さな誤算が更に甘寧を不利にする。

 術に秀でた玉藻は戦闘が不得意だった。
 昔のままでいてくれたら、まだ正気は見えたかもしれないのに。
 玉藻の掌から繰り出された目に見えぬ刃を間一髪回避した甘寧は歯噛みする。

 彼女の様子を幽谷は隙を見て確かめながら、甘寧と興覇の援護に徹している。
 玉藻は本気を出していない。本気を出すまでもないと、分かっているのだ。


「甘寧。随分と衰えたな。そのざまで妾を殺すとは片腹痛いわ!」

「……っ!」

「姉上!」


 突如甘寧の周囲が燃え上がる。
 黒炎から腕が伸び甘寧を捕えんと迫るのを興覇が抱き上げて難を逃れた。

 円を描く黒炎は消えない。伸びたままの手が揺らめき獲物を待ち受けている。
 この狭い船上、あれを幾つも置かれたらこちらの動きが制限されてしまう。

 華佗が河の水で龍を作り出し鎮火を試みるが、効果は無かった。

 甘寧を下ろし庇うように前に立った興覇は玉藻に向かって声を張り上げた。


「大姉上! どうか俺の話を、」

「黙れっ!!」


 玉藻が腕を薙ぐ。

 興覇が咄嗟に顔の前で腕を交差した刹那、突風が彼を襲った。
 身体の至る所が裂け、血が風に飛ばされる。

 幽谷は興覇へ憎悪の睨みを向ける玉藻の背後を駆け抜け一瞬だけ注意を逸らした。

 その隙に興覇の後ろから跳び出した甘寧が大剣を突き出す。

 が、あっさりとかわされてしまう。

 甘寧の衰えは深刻だった。
 精彩を欠いた彼女の動きは、幽谷でも簡単に見切ってしまえる。
 興覇や華佗の方が良く動けている。

 一番歯痒い思いをしているのは甘寧だ。
 己が決着を付けるべき戦いだというのに、己が足手まといになっている現実を突き付けられながらも、剣を振るう手を止める訳にはいかないのだ。

 幽谷が背後から匕首で切りかかり反撃される前に距離を取った。

 そこへ興覇が切羽詰まった声で訴えかける。


「大姉上! 我らの母であり姉たるあなたならば分からぬ筈がない!」

「黙れと言うておるのが分からぬか!」

「! うぐっ!」


 興覇が背後から何かに殴られ前のめりに倒れ込む。
 片足を前に踏み込み体勢を整えたところに追撃。足元から黒の槍が飛び出した!

 身をよじったが脇腹を掠めてしまった。


「ぬう。すまぬ、華佗!」

「んなこと気にしてる場合か!!」


 逼迫(ひっぱく)した声で華佗が怒鳴る。

 興覇は苦笑して、頭上から降ってきた兵士の槍を跳躍して避ける。

 華佗が舌打ちして玉藻の影から似たような槍を作った。
 が、すぐに霧散してしまう。

 玉藻は華佗を標的に定めた。
 右の掌を向け、何かを掴むように指を曲げる。

 途端、華佗は首を押さえて身体を折った。


「ぁぐ……っ!」

「華佗!!」


 甘寧が顔色を変えた。華佗へ近寄ろうとするが、風の刃が襲い掛かり後ろへ跳躍。華佗から距離が開いてしまった。


「妾の術の紛い物を次々と……目障りだ」

「っ、う……ぐぅ……」


 華佗も術をかけたりなどして抵抗を試みるも、力は緩むどころか強さを増していく。

 興覇が玉藻に殴りかかった。避けられた。


「大姉上! 華佗を殺すのは止めてくれ。あれは淡華の夫なのだ」


 そこで、予想外のことが起きた。


「……何。淡華の夫だと?」

「――――ッかは……!」


 華佗がその場に膝をつく。大きく呼吸し、不可解そうに玉藻を睨んだ。

 玉藻は華佗を見つめ、顎に手を添えて意外そうな顔をしている。


「可愛い淡華がこれをのう……あれにしては、ちと、趣味が悪い」

「……」


 幽谷は呆気に取られた。
 甘寧や興覇も同じである。

 淡華の名が出た途端、彼女の雰囲気が変わった。

――――あの時みたい。

 そう思った。
 幽谷の目の前で李典の身体を奪った玉藻も、淡華に気付くと態度が柔らかくなった。

 もしかすると、淡華だけは、彼女にとってはまだ愛すべき身内……なのかもしれない。


「あれにはもっとましな男が相応しかろうに、何故このような男を……いや、あの娘は何処か抜けておった。あれでは男を満足に品定め出来ぬか」


 玉藻は承服しかねる風情でぶつぶつ言っている。

 その様を見て、興覇はほっとしたように表情を緩めた。


「いいえ。大姉上。この華佗は淡華を良く守り良く支えてくれた。このような見てくれだが、淡華を本気で愛してくれておる男なのです。この者を伴侶に選んだ淡華の目に狂いはなかったと、俺は断言出来ます」

「……ふむ」

「どうか、成長したあの子に会うて下さい。そして――――」


 そこで逸ってしまったのが間違いだった。


「淡華にはもう会うた」

「ぐっ!」


 瞬間、興覇の身体が宙に浮いた。
 床に叩き付けられた興覇は呻く。


「っぉお、あねうえ……!」

「淡華の夫というのなら、そちも生かしてやろう。淡華が泣いてしまうのは敵わぬ。だが、」


 妾を苛立たせぬよう、静かにしていろ。
 指を鳴らす。

 華佗ははっとして何か術で対抗しようとし、


 ぱたりと倒れた。


 華佗へ駆け寄ろうとした幽谷は、


「幽谷。そちもだ」


 背後に声が聞こえ身体を震わせた。
 振り返れば間近に玉藻。

 玉藻は幽谷の頭に手を翳(かざ)した。


「……! 何を」

「そちも殺すつもりはない。が、蝿のようにあちこち飛び回られては誤って殺めてしまいかねぬ」


 幽谷は逃げた。
 しかし、数歩離れた時、一切の感覚が削ぎ落とされたように一瞬で失せた。
 力が入らない身体はそのまま倒れた。
 声すら出せない。

 こんなにも容易く……!


「そちも、全てが終わった後には淡華の側におれ」


 どうして。
 どうして、淡華殿のことになった時だけ。


 そんなにも優しい声音なの――――。


 玉藻の手が幽谷の肩を撫でる。

 意識が、遠退いていく。



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