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※注意



 何とおぞましい存在だろう。
 幽谷は全身を駆け巡る悪寒を止める術が思いつかなかった。

 九尾の狐三姉弟の長姉、玉藻。
 その存在感は押し潰されるくらいに圧倒的でぞっとするくらいに禍々しい。
 金眼とは比べものにはならない。あれだけ人間の社会を破壊して回った程の存在が、まるで子猫。この漆黒の女狐の前では雲泥の差である。

 私では倒せない。
 種としての本能が敗北を悟る。
 彼女は誰にも倒せない。
 恒浪牙や甘寧にだって倒せる訳がないのだ。

 けれど――――。

 幽谷は尚香を振り返った。
 絶対的支配者の妖気に当てられた周瑜と周泰に兄と共に寄り添う彼女も顔色が悪い。
 興覇が周瑜に握らせた物の加護で少しは良くなると思われるが、戦える程までは難しいだろう。

 幸い、幽谷は淡華に助けられた時のことが嘘のように周り程影響を受けていない。
 玉藻の影響下にあった利天がいる間に耐性が出来たのか、そもそもこの器の性能として《馴染んだ》だけなのか、他に理由があるのか、幽谷には分からない。
 ともかく、彼らに比べればまだ自分は動ける。それだけ分かれば良い。

 玉藻には敵わない。
 だが何もせずに成り行きを見ていることは出来ない。

 だって。

 後ろには狐狸一族の幽谷が大切にしている少女が、その少女が愛おしく思う家族がいる。
 首を巡らせれば、犀家の幽谷が大事にしていた心優しき少女と少年達がいる。
 そして、あの身体は玉藻ではなく利天の双子の兄の子孫李典だけのものだ。 

 よしや何も出来ないと分かっていても、私には甘寧様に与えられた切り札があるのだから、自分達の大切な存在を守る為に持てる全てを使って足掻きたい。

 尚香達のことは蒋欽に託した。危険と判断した瞬間にでも彼らを連れて逃げてくれと頼んだ。

 私は甘寧様の援護に集中する。
 一人で姉を討つ覚悟で立つ甘寧に近付く幽谷の耳に、玉藻を崇拝する白銅のはしゃいだ甲高い声が届く。


「お姉様! 敬愛するお姉様! 私の為に来て下さったのですね?」


 玉藻の腕に抱き着き、頬を寄せる。
 己の血が玉藻の身体を赤く濡らすのを見てうっとりと目を細めた。


「嗚呼……素敵。お姉様はやっぱり血に濡れたお姿が一番お美しいわ」

「そうか。では、もっと血でこの身を染めさせてやろう」

「ええ。それがよろしいですわ。さあ私達と共に――――」


 ざしゅ。


「え……?」


 白銅の身体が揺れた。笑顔のまま、玉藻の身体を見上げた。


「ど……どぉじテ?」


 ごぼりと血が口から溢れ出す。
 血は玉藻の腕を赤く染め、或いは顎から伝い落ち己の胸を濡らす。
 揺れはするものの白銅の身体は倒れなかった。
 何故なら、下から貫かれているからだ。
 自分の影に。

 利天の時と同じように影が鋭利な槍と変わったのだ。自身が生み出した影が、股間から背中へ肉を裂いたのだ。


「どうだ。そなたの望むように血に染まってやったぞ。妾は美しいか」

「あ゛……っお゛、姉さま……」


 よろよろと手を伸ばす白銅。
 笑みが崩れ絶望に歪む。何故、と血の涙を流しながら支配者へ訴えかける。

 玉藻は熱烈な信仰を捧げる白銅を冷めた目で見下す。

 白銅の指先が玉藻の肌に触れかけた瞬間、肘から切断され落ちた。
 脈動に合わせて噴き出した血にまた玉藻の身体が濡れていく。

 玉藻は白銅の頬にそっと触れた。
 顔を近付け、


「そなたの殺戮は、ほんにつまらなかった」

「……ぞん、な」


 お姉様。
 それが、最期の言葉となった。

 白銅の身体が急速に窶(やつ)れていく。
 生気を吸われているのだ。
 必要無かろうに彼女の力が玉藻に吸収されていく。

 幽谷は甘寧の隣に並び、


「可能な範囲で援護致します。この身体を使う際には合図を下さい。お側に参ります」


 甘寧は玉藻を見つめたまま、暫く無言だった。

 返答を待っていると、甘寧は幽谷を一瞥する。
 彼女の青い目に、迷いと怒りがあったのを幽谷は見逃さなかった。


「甘寧様」

「……合図を出したらお前はあいつに体当たりしろ。その時に、オレが奴をお前の身体に封じる」

「分かりました」



‡‡‡




 こんなにも弱ってしまった自分が情けないと甘寧は己を恥じる。

 実際に玉藻と相対し、自分が思っていた以上に力が無いことを悟った。
 幽谷の身体を――――最期の切り札を用いたとしてもオレはこの人には敵わない。この人を倒せないと、姉を見た瞬間認めてしまった。

 正直、圧倒的な邪気と怨念を我が身に受け、立つのが精一杯な状態を必死に隠して玉藻のみならず幽谷へも虚勢を張っている有様だった。
 こんなに弱っていたのでは、非情と罵られること覚悟で作った幽谷の存在が無駄になる。

 嗚呼、やはりオレは……中途半端だ。

 心の中で自嘲する。

 甘寧は九尾三姉弟の真ん中。

 姉は術に優れた。
 弟は武に優れた。
 甘寧はそのどちらにも寄らず、術も武も中途半端だった。
 姉にも劣り、弟にも劣っている。

 昔から感性の違いから衝突しがちな姉と弟の仲裁役で、三人の中では肌と髪の色だけで目立っていたような半端な狐だった。

 そんなオレは、力を削ぐ前だったとしても、やはり姉上には敵わないのかもしれない。
 封印だって、いつか絶対に解けるって分かってたしな。

 厳しい面持ちで邪悪な姉を睨みつつ、甘寧は拳を握る。
 だが、それでもやるしかない。

 必ずや玉藻はオレが殺す。
 いつか解けると分かっていた封印にそう誓って、オレは今ここにいる。
 絶対に、オレがここで玉藻を殺さなければ!!

 己の半端さ、無力さは言い訳にもならない。するつもりもない。
 やり遂げるのだ。オレが。
 あの人の妹であるこの甘寧が!

 己に活を入れ、甘寧は大剣を握り締める。


「幽谷。玉藻とぶつかるのは主にオレだ。お前はなるべく攻撃を受けるな。器が重傷でもしたら、治さねえ限りは性能が落ちちまう」

「分かりました」

「姉上。俺も戦いたい」


 す、と幽谷の隣に並んだのは興覇だ。
 悲しげな顔で二人の姉を見、覚悟を形にするようにゆっくりと構えを取る。


「姉上。最初は俺に大姉上とぶつからせてくれ。大姉上と話したいことがあるのだ」

「馬鹿。もうお前にそんな余裕はねえだろ」

「それでもだ」

「術がからきしのお前が、あの人を相手に満足に戦えるのか」

「そこは、俺が援護すりゃあ良い」


 また、並んだ。今度は華佗だ。
 顔に冷や汗が流れながらも狼牙棒をしっかりと握り玉藻に相対す。

 甘寧は眉間に皺を寄せて華佗を睨んだ。


「華佗。お前は出るな。蒋欽と共に劉備達を、」

「では行くぞ華佗」

「おう!」


 甘寧の言葉を遮り、興覇が先んじて玉藻に踊りかかる。

 玉藻は丁度白銅の生命を吸いきったところだった。こちらに向き直った彼女へ興覇の拳が迫る。
 しかし、ひらりと軽やかにかわされた。

 憎らしげに弟を睨めつける玉藻。ザワリと妖気が揺らめき、漆黒の髪が広がり、生き物の如(ごと)揺れる。


「大姉上。俺の話を聞いてはもらえぬか」

「お前は賢しいが、狡猾になれぬ。妾にどのような策を弄そうとも無駄だ」

「姉に策を弄する必要は無い。俺は、あなたに気付いて欲しいことがあるだけだ」

「見え透いた虚言を吐くでないわ!」

「虚言などでは決して――――」


 瞬間、興覇の周りを薄い膜が覆った。
 それは甲高い音を立てて何かを弾き粉々に砕け散る。

 華佗が悔しげに舌打ちした。


「こりゃ、とんでもなねえ差だな……」

「当たり前だ。オレの術はあの人の猿真似に過ぎん。だから、」

「俺は退がらねえからな」


 伯母を睨み、華佗は頑として譲らない。

 甘寧は舌打ちした。
 大剣を持ち直し幽谷を呼ぶ。

 華佗が制止するのも聞かず、玉藻へ突進した。



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