13
全身を駆け巡る血潮が歓喜に沸いている。
この感覚を言葉にするなら、まさにそれ。
絶対的な支配者を己の血が憶(おぼ)えている。
嘗(かつ)て我らを率い、世を甘美なる絶望に染め上げた尊き存在を。
嗚呼、あのお方をお迎えしなければ。
再び世界に滅びを、恐怖を、絶望を。
今まで抱いたことも考えたことも無いおぞましい感情に理性が支配されていく。妖の血に支配されていく。
関羽は頭を抱えてその場にうずくまった。
自分自身にこんな衝動が隠れているなんて信じられない。
あのお方に従え、あのお方が喜ぶように全てを破壊し尽くせと沸き立つ己の血に命令される。
嫌よ、わたしは何も壊したくない。誰も傷つけたくない。
あのお方って誰?
熱い、苦しい。
誰か助けて、この衝動を止めて――――。
「関羽!」
「あ……っ」
頭を押さえていた手を掴んだのは劉備だ。
疲弊した顔の彼は、関羽よりは落ち着いた状態に見える。
劉備は関羽の手を自分の胸に押し付けた。
布の下に硬くごつごつした石のような感触がある。
触れた瞬間、身体を煮えたぎらせていた血が急速に冷めていくのを感じた。
浮遊感なのか、落下感なのか、形容しがたい不安定な感覚にも襲われ、関羽は劉備に縋るように身を寄せた。
劉備の大きな手が、頭を按撫(あんぶ)する。
「落ち着いて。自分が誰か、自分に言い聞かせるんだ」
「……ええ」
関羽は言われた通りに自分に言い聞かせる。
自分――――関羽という存在を。
暫く続けていると、上から劉備ではない声が降ってきた。
「関羽も張飛達ももう大丈夫だ。あとは周瑜のみ」
興覇の声。
顔を上げると、興覇はこちらを見ていない。
視線を追うと周瑜と周泰がその場にうずくまって呻いている。彼らには孫権と尚香が寄り添い、彼らを守るように蒋欽と幽谷が立つ。
甘寧と恒浪牙は――――得物を構えて白銅と相対し牽制していた。
「劉備。関羽を連れて張飛達の側にいなさい。お前に持たせた狐玉が、猫族の血に潜む魔性からお前達の理性を守ってくれる。俺は周瑜を」
「……うん。分かった」
興覇は関羽の頭を軽く叩くように撫で、大股に周瑜のもとへ移動する。
それを見た白銅がこちらへ躍りかかろうとするのを恒浪牙が背後に回って狼牙棒を大振りし逆方向へ回避させた。
白銅が何か叫んでいるが、怒りのあまりに言葉が潰れて聞き取れない。
恒浪牙が義父へ目配せする。
興覇が片手を振り、周瑜の側にしゃがみ込む。
彼が周瑜の手に何か握らせるのを確認し、幽谷が蒋欽に何かを囁いた。
蒋欽は渋面を作ったものの頷いた。
幽谷は頭を下げて匕首を持ち白銅へ背後から襲いかかる。
自分も加勢しなければ――――そう思って前のめりになったのを劉備が止める。
「今はまだ駄目だ。今の僕達は満足に動けない。君は半分だからまだ軽いけれど、それでも気を抜けば君は彼女に支配されてしまう……」
彼女……白銅が『お姉様』と呼んでいた存在。
甘寧と興覇の姉、九尾姉弟の長女、玉藻。
その圧倒的な気が、わたしの半分しか無い金眼の血をあんなにも騒がせた。
わたしでああなったのなら、劉備や張飛達はもっと苦しい筈。
劉備は、幽谷らの攻撃に動きを封じられる白銅の動きを注視しながら関羽を抱き上げ張飛達の側へ急いで移動した。
三人共、劉備よりも関羽よりもぐったりしている。
苦悶に青ざめながらも前のめりに倒れ込んだ蘇双の身体を支える張飛は、劉備を見上げて覇気の無い掠れた声を絞り出した。
「劉備……この気配は一体……」
「玉藻……様だよ。甘寧様と興覇の、姉……」
様を付けることに一瞬躊躇ったものの、劉備は結局は付けた。
「一部だけど、金眼の記憶が力と共に僕の中に残ってる。金眼達大妖は個々で暴れ回っていたけれど、玉藻様
の下で統制が取れていた。彼らにとって玉藻様は圧倒的な存在。逆らうなんて考えもしない絶対の支配者だったんだ」
姿は覚えていないが、その何者をも併呑(へいどん)するおどろしき威風ははっきりと記憶している。
その彼女が、各々好きに暴れるが良い――――そう言ったから、彼らは自由に、気の向くまま、満足するまで暴れ回った。
玉藻に、たった一言で良い、褒められることを夢見ながら。
金眼もそうだった。
数多の大妖の中でも抜きん出て力の強かった彼はその残虐性も含め玉藻に大層気に入られていた。
気に入られていたからこそ、金眼は徹底的に世界を壊し尽くした。自分達の女王から寵愛をこいねがった。
「僕の中で、金眼の呪いが玉藻様の期待に応えたいと騒ぎ出している。興覇の狐玉が無かったら、彼女の気を感じた瞬間僕は理性が壊れてしまっていただろうね。呪いが活発なうちは、興覇の狐玉から離れないで」
「ちょっと……待って、下さい。じゃあ、他の皆は……?」
関定の弱り切った声は震えている。
劉備は痛ましげに眉尻を下げた。
「多分、特に影響が強いのはこの船の上だ。他の皆はまだ軽い筈。……皆を信じるしかない」
「そんな……」
きっと近くに狐狸一族がいるだろうから大丈夫……と思いたい。
劉備は不安を振り払うように首を左右に振り、白銅の動きを観察した。
混血の関羽にすら影響が出る程の存在感を放ったのだ、白銅に何かしらの変化があるかと思ったが……怪我が治癒されている訳でもなく、力が強化されている風でもない。
何も変わっていない。
だから変わらず、ああも容易く動きが制限されている。
どういうことだ……?
その答えは、背後から降ってきた。
「……つまらぬな」
ほんに、つまらぬ小競り合いだ。
物憂げな呟きに全身の毛が粟立った。
同時に、胸の奥が大きく疼いた。
疼きは下へ、股間へ落ちていく。
得も言われぬ甘美な感覚にぞっとした。
嘘、だ。
この声を聞いただけ。
たったそれだけのことで、声の主に欲情しているのだ。
強制的に。
――――彼女だ。
金眼の記憶が告げる。
「りゅ、劉備……っ!」
劉備の後ろを見て震え出した関羽の身体を抱き締め、劉備は大きく深呼吸する。
振り返る。
彼女がいる。
漆黒の衣と長い緑の黒髪を風に揺らし、冷たい表情で白銅を眺めている。
「……え?」
驚いた。
困惑した。
その顔は姉弟だけあって甘寧に興覇にも似ている。
だが、微かに、ほんの僅かに。
幽谷に似ているような気がした。
妖狐玉藻は劉備達を興味なさげに一瞥した後、悠々と脇を通過して行った。
玉藻の出現にその場の誰もが動きを止めている。
現れた瞬間から蕩けるような笑みを浮かべる白銅などには目もくれず、苦々しい表情の甘寧を憎らしげに睨みつけ、玉藻は唸るような声で言い放った。
「久しいな。甘寧。興覇。我が忌まわしき弟妹共よ」
「……ああ。本当にな。あんたとは二度と会いたくなかったよ。……姉上」
「大姉上……忌まわしきなどと仰いますな。俺達は、あなたのことを」
「黙れっ!!」
悲しげな弟を一喝した玉藻。
「姉を裏切っておいて何をぬけぬけと……! お前達から受けた仕打ち、妾はひと時たりとて忘れたことなど無い!」
「大姉上。あなたのそれは誤解なのだ。あなたであれば、俺よりも先に気付けた筈だ。姉上は――――」
「よせ。興覇。邪に堕ちた玉藻にオレ達の言葉は届かねえよ」
甘寧は弟を制し、姉を真っ直ぐに見据えた。
一瞬だけ青い瞳を揺らし、大きく息を吸って。
「ちゃんと、決着をつけよう。姉上」
大剣を、ゆっくりと構える。
「甘寧……まこと忌ま忌ましい赤狐よ」
玉藻の憎らしげな声が、人の子らの心を戦(おのの)かせる。
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