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 何よ。
 何よ。
 何よ。

 何なのよ!?

 白銅は心の中で叫んだ。

 後少し! 後少しなのに!
 愛しい愛しい私のお兄様はそこにいる。

 でも、周りのごみ共が邪魔をする。
 どうしてお兄様は私の、私だけのお兄様に戻ってくれないの?
 私がこんなに頑張っているのに。
 私がこんなに愛しているのに。
 私が、私が、私が、私が、私が、私が私が私が私が私が私が!

 私の愛は何物にも阻める筈がない!

 だのに、最愛の兄はその器から覚醒してくれない。
 どうしてその器を支配出来ないの?
 お兄様はそんなに弱くない。
 有り得ない。
 こんなこと、あってはならない!

 白銅は歯軋りし歯の隙間から低い身の毛もよだつようなおぞましい唸り声を漏らした。

 ……赦(ゆる)さない。
 私からお兄様を奪う奴は絶対に赦さない。

 彼女の怒りに煌々と燃える金の双眼が睨めつけるのは、最愛の兄にピッタリ寄り添う汚らわしい醜女(しこめ)。
 醜女の手が兄に媚びるように触れた瞬間、全身を苛む激痛を彼女は忘れた。


「……にを……なにを……なにをふざけたことを!」


 白銅は起き上がり金切り声を上げた。


「お兄様に触らないでよおおおお!」


 周りの生き物達が一斉に自分を見る。
 その中で狐の弟だけは、私を憐れむように見ている。
 何が憐れだ?
 何故私はあいつに憐れまれている!?

 死んでいるくせに私を馬鹿にして!!


「この世は殺戮に満ちてこそ素晴らしいものとなるのに! お兄様は忘れてしまったの!?」

「僕はお前の知っている金眼とは違う。白銅……」


 僕はお前を討つ!
 決然と言い放つ最愛の兄に、足元が崩れ落ちるような不穏な感覚に襲われた。

 白銅が、悲痛な悲鳴を上げる。



‡‡‡




 白銅がよろめいた。
 頭を抱えて大きく首を左右に振る。


「ありえない、ありえない、ありえない! そうよ……きっと勘違いしてるのよ。私と一緒にいれば、元のお兄様に……」


 動きが止まる。
 劉備を見据え、うっそりと微笑む。


「待っててね……お兄様。目を覚まさせてあげる……」


 劉備と関羽、そして姉を守るように、興覇と蒋欽が前に立つ。
 他の者も各々の構えを取る。

 興覇の憐れみの眼差しは変わらない。

 白銅は唸り声から怒号へ変えた。


「他の奴らなんていらない! あんたたちなんか、私とお兄様に殺されればいいのよ!」

「殺させはせんよ。劉備を助ける為に、俺はここにいるのだから」


 興覇の言葉は穏やかだ。しかし、半身の構えを取り拳を堅く握る彼の全身から漲(みなぎ)る闘志は静かながらに押し潰されそうな程重厚で、隙が一切無い。

 その姿を心強く感じながら、劉備は口を開いた。


「関羽、興覇。お願いがあるんだ。僕に力を貸してくれないか?」

「それは答えるまでもないことだろう。なあ、関羽」


 興覇の言葉に関羽は大きく三度頷いて見せた。

 劉備は関羽の力強い笑みを見、自身が勇気付けられるのを感じた。
 関羽の肩に手を置く。
 華奢だ。
 いつも僕は、このか弱い身体の少女に守り慈しまれてきた――――。


「君が、僕なら呪いにも負けないって、そう思わせてくれた。こんな僕のこと、愛してくれてるとも……」

「劉備……」

「その言葉がどれほど嬉しかったか……。僕も、僕自身を好きでいていいんだって、愛してもいいんだって思えた……あんなに嫌いな僕だったのに……」


 そこで、劉備は興覇を見上げる。
 幼い劉備を、いつも優しく見守り、暖かく肯定し、父親のように導いてくれた興覇は、こんなにも大きくて穏やかな、側にいるだけで緊張を解いてしまう包容力のある人物だったのか。
 彼は友人として、生まれた瞬間から劉備を大事に思ってくれていた。誰よりも身近で、誰よりも親身に接してくれていた。
 だのに、僕は彼の気持ちを信じることが出来ていなかった。
 拒絶したのだって、優しい言葉の下できっと罪を犯した自分を軽蔑しているに決まっていると思ったからだ。

 本当はそんなこと、全然なかったのに……誰よりも知っていた筈だったのに。


「興覇……僕の為に色んな苦労をかけてしまってごめん。今でもこんな僕を友達だと言ってくれて、助けてくれて、ありがとう」


 興覇は振り返らない。


「我が友、劉備。俺がお前にしてきたこと、これからしようとしていることは、全て、友として当然のことだ。昔にも言ったお前は俺がそうするだけの価値がある存在だということを、もう二度と忘れないでくれ」

「……うん。本当に、ありがとう」


 今なら分かる。
 そうしてくれる、そう言ってくれる存在がどれだけ尊いのか。

 長として敬い守ろうとしてくれる人、親兄弟のように導いてくれる人、友として笑い合ってくれる人、一人の男として愛してくれる人――――。
 本当に、自分は恵まれていたのだ。

 それだけの価値を、彼らの力強い表情が肯定してくれている。

 やっと、気付けた。


「ここで一つ、自慢しても良いか?」

「何?」

「女として一番お前を好いておるのは関羽だ。だがな、友人としてお前を一番好いておるのは俺だ」


 何せ俺はお前の最初の親友なのだからな。
 肩越しに振り返った興覇の笑顔はとても眩しかった。

 劉備は笑って頷き返す。

 笑い合う二人を見、関羽も安堵してつい、瞳を潤ませた。

 ……しかし。
 甘寧だけは、何処か悲しげに、憐れむように、劉備と興覇を見つめていた。
 彼女の目に何が見えているのか――――。

 突如、狂気の咆哮が船を揺るがす。


「ああ゛あアあァああア゛ぁあぁぁぁァァぁぁッ!! ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな!! 矮小な人間如きが私からお兄様を奪うなんて赦さない! 赦さない!! 赦さない!! お兄様は私のものよ、私の愛、私の大切な一番の愛! お兄様は誰にも奪わせない……ぜッタいニウバわせなイぃ……っ!!」


 関羽達への怒りと、劉備……否、金眼に対する執着がどす黒い色に染まって金色の瞳の奥に渦巻いている。
 地団駄を踏みながら唸る白銅は、不意に身体を震わせた。
 獣の耳を動かし天を見上げる。

 ひゅ、と息を吸った彼女は、次の瞬間花が咲いたように笑顔になった。

 同時に甘寧と蒋欽が表情を変えて周りを見渡した。幽谷もやや遅れて匕首を構える。


「……お姉様! 私にまた力を貸していただけるのですね!?」

「ぐ……っ」

「あっ、おい、周泰!?」


 周泰が大きくよろめいた。
 咄嗟に周瑜が身体を支えてやるが、自力で踏ん張れずその場に崩れ落ちた。

 孫権が血相を変えて周泰の顔を覗き込む。


「大丈夫か、周泰!?」

「……ぅ、く……」


 急速に顔色が悪くなっていく周泰。
 甘寧が目配せし、蒋欽が急ぎ彼らの側へ移動した。

 白銅は天へ向けて両手を広げ、踊るようにくるくる回る。


「お姉様! どうか、どうかその麗しいお姿をお見せ下さい! お姉様! お姉様!!」

「お姉様……お姉様って、まさか――――」

「玉藻姉上のことだ」


 顔を強張らせる劉備へ、興覇が静かに答える。
 その顔は、痛みを堪える苦しげな表情を浮かべている。

 甘寧も、ほぼ無表情ではあるが、弟に近い感情が微かに窺えた。


「劉備。己をしっかりと保っていろ。関羽も、周瑜も、張飛達もだ」

「え……?」


 直後である。


――――ぞぞぞぞぞぞぞっ。


「ひぃ……っ!?」


 突如として全身を駆け巡った悪寒に関羽は悲鳴を上げた。偃月刀を取り落とし、己を抱き締める。ふっと足から力が抜けて座り込んでしまった。
 張飛や周瑜達も同じような状態だった。

 劉備は関羽達よりももっと酷いようだ。片膝を付き、呼吸を荒くし異様な量の汗を掻いている。


「な、何なの……この、感覚……?」

「この陰の気……なんて存在感……押し潰されそうだ……」


 これが、甘寧様と興覇の……。
 言いさし、劉備は自分の頭を殴りつけた。


「あ、く……っ、自分を、見失ってしまう……!」

「りゅ、び……」

「嗚呼、嬉しい。お兄様、もうすぐお兄様が戻ってきてくれる! 早く、早く早く、お兄様、私と一緒にお姉様に会いに行きましょう!」


 白銅の感極まった声は震えている。



‡‡‡




 興覇は二人を守るように前に立ち、意識を研ぎ澄ます。
 大姉上……何処だ。あなたは何処にいる。
 俺はあなたに話さなければならないことがあるのだ。
 姉上が狐狸一族を守り続ける理由、あなたの言う『偽の狐狸一族』の意味をあなたは知らなければならない。

 俺は姉上がどんな人なのか知っている。
 そして俺以上にあなたは姉上を知っている。

 大姉上、どうか姉上を恨まないで欲しい。

 あなたが邪に堕ちてから、姉上がどんな気持ちでいたのか、あなたは知らなければならない。

 俺がここにいるもう一つの理由を果たさなければ。



 『興覇』が完全に消えてしまう前に。



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