11
「暗殺者です」
冷淡な言葉と共に、彼女は白銅の背を切り裂いた!
大妖の鮮血と断末魔が周囲に飛び散る。
匕首に付着した汚らわしい血を払い落とし、彼女は白銅に崩れ落ちることを許さず容赦なく蹴り上げ、鳩尾に肘を落とした。
床に叩き付けられる白銅。
血の染み込んだ板に爪を立て、威嚇するように唸る。
「お、お前ぇ……っ!? 何故だっ? 何故お前が動ける!?」
「あなたが望まぬ願いに執着している間に、治してくださった方がいらっしゃったので」
言いながら、色違いの目を興覇へ向ける。拱手する。
興覇はゆっくりと頷いた。
「幽谷。すまぬな」
「いいえ。そのお陰で、難無く背後を取れましたから。……正直、拍子抜けしてしまいましたが」
蔑むような目を向ける幽谷。
白銅は悔しげに幽谷を睨め上げる。
「お姉様が、お前を封じていた筈……だのに、何故だ!」
「利天殿が出られないのならば、私が出れば良いだけのこと。孤狸一族の幽谷殿を守っているのは、利天殿だけではないのですよ」
幽谷は淡々と答えると、白銅を跨ぎ興覇のもとへ戻って来る。
孫権達にも拱手した。
「幽谷……?」
尚香が、幽谷を呼ぶ。
掠れた声を受け、幽谷は目を細めるのみで、何も言葉を返さなかった。
彼女の呼ぶ幽谷ではないからだ。
「しかし、皆様。興覇殿のお考えが良く分かりましたね」
幽谷のこの言葉に、二人は顔を見合わせ、
「「こいつを見てて何となくそう思っただけだし」」
至極当然のように答えた。
興覇が嬉しそうに笑い、何度も何度も大きく頷く。
それでいながら、不意に不満顔になって劉備に向かって言うには、
「姉上も華佗も俺の意図を汲んでくれたというのに、劉備。お前は随分と酷いことを言う」
「え……?」
「俺はお前に裏切られた覚えは一度とて無いぞ。だと言うのにお前は、死で俺に詫びようとする。これには亡霊扱い以上に傷ついた」
劉備は瞳を揺らした。
「でも……僕は君を僕の中から追い出した。要らないと言って、ずっと僕の存在を肯定して支えてくれていた君を冷たく拒んだんだ」
興覇は不思議そうに首を傾ける。
「俺は追い出されてなどおらぬぞ。ただ、お前が言った『要らない』という言霊に縛られて、お前と意思疎通が図れなくなっていただけだ」
「え?」
「俺は劉備と会話が出来ないだけで、ずっとお前と共にいた」
だって俺は、ずっと金眼の呪いと共にいるのだから。
意味深な興覇の言葉に甘寧がはっとする。華佗を見やり、
「おい婿。もしかしなくとも劉光にこいつの狐玉を持たせたか?」
「ああ、渡した。それがこいつの死に際の頼みだったから……」
そこで華佗も何かに気付いたらしい。目を丸くして義父を見た。
甘寧が舌を打つ。
「馬鹿が」
「ええ。俺は馬鹿者です。そんなのは生まれた時から姉上達が良くご存知でしょう。何せ姉上達の弟なのですから」
胸を張る興覇に甘寧は苦虫を噛み潰したような顔で溜息をついた。
「……そうだったな。お前も、姉上も、オレも……馬鹿ばかりだったな」
興覇は頷いた。
「ええ。九尾姉弟は皆、馬鹿者なのです。だからこそ、俺が劉備のことを怒る筈が無い」
「興覇……」
「俺だけではないぞ。誰もお前を怒ってはいない。お前を許していないのはお前だけだ」
劉備に向けて手を差し出す。空色の目が、慈しむように細められた。
「折角、自分自身の全てを受け入れたのというのに、どうして最後の一歩を踏み出せない? 何故ここで死を選ぶ? お前が選ぼうとしている死は、己の存在そのものを否定することだ。受け入れた心の強さも、何もかもを。お前の選択全てをお前自身が否定することになるぞ。それは本当に自分を受け入れたことにはなるまいて」
劉備の顔が泣きそうに崩れる。
唇を震わせ、無言でいること暫し。
彼は両手に拳を握り締め、俯いた。
小さく謝罪した劉備に、関羽が身を寄せる。
「劉備……」
「興覇……駄目だ。やっぱり、駄目だよ」
「何故?」
「ずっと一緒にいてくれたのなら知っているだろう? 僕はあまりにも多い罪を犯してきた。それを全て許すなんてこと、僕には……出来ない……っ」
たとえ君の言っていることが本当だとしても。
劉備の声が徐々に震えていく。
握り締めた両手を開き、その掌を見下ろす。怯えるように息を震わせる。
「人間だけじゃない……僕は仲間すら手にかけた……世平を……そして彼らの両親を――――」
「そのオレ達が、許してやれって頼んでもか?」
劉備の声を遮ったのは、張飛の落ち着いた声だった。
ぎょっとして顔を上げた劉備が見たのは、真っ直ぐに見つめてくる猫族の三人。
蘇双は劉備と目が合うのを待っていたかのように口を開いた。
「劉備様。実はそれ、この戦が始まる前に知っていたんです」
「え……?」
「その、興覇って人に教えられて」
劉備がぎょっとして興覇を見る。
興覇は穏やかな目で劉備を見返した。
彼は、僕の中にいた時も、ずっとこんなにも暖かくて優しい目で内側から見守ってくれていたのだろうか。
「その上で言わせて下さい。ボク達は劉備様を許します」
もう一度三人を見る。
「オレ達はな、ちゃんと知ってる。劉備がどれだけ重いものをしょってるか」
「それが、ボクたちのためにしているんだってことも」
「劉備様が、それでどんなに苦しんで悩んでるのかも、オレたちは全部見てます」
「劉備はちゃんとオレたちのことを想ってくれてる。それが分かるからオレたちは許せる。……っつーかそもそも、聞かされた時、劉備に対して怒るってのも頭に無かったよ」
劉備が悪いのではないと、猫族は皆、ちゃんと分かっている。
悪いのは劉備に凶悪な衝動を与える金眼の呪いであり、抗えないと分かっていながら呪いを劉備に任せっきりで何もしていなかった自分達。
自分達にも反省すべきことがあるのに、どうして劉備を憎めようか、責められようか。
三人は、劉備に笑って見せた。
いつも劉備に向けてくれた笑顔だ。
「だからさ、劉備。興覇さんの言う通り、オマエ自身を受け入れてやれ」
「死ぬのは絶対に許しませんよ。ボク達は皆、劉備様を支えたいんです」
「そうそう。隠し事したり、勝手なことしたり、オレはそっちの方が許せねーよ!」
「自分を信じて下さい。劉備様。オレたち全員が、劉備様を信じてるんですから!」
劉備は言葉を発せなかった。
頭を撫でられる。興覇だ。
手を強く握られる。関羽だ。
「劉備。みんな劉備が好きだから、こんなに支えようとしてくれているのよ。世平おじさんもその一心であなたを助けたの……。わたしもあなたを支えたい……そして、助けたい! 劉備がいないとダメなの! わたしの大好きな……ううん」
この世でただひとりの、愛する劉備だから!!
声を大きくして、関羽は劉備を鼓舞する。
力強い想いを言葉に乗せて、最後に劉備にぶつける。
「僕は……」
劉備は幽谷を見た。
一瞬のことである。
犀家の幽谷は、ほんの一瞬だけ、劉備に微笑みかけた。
まだ幽州の隠れ里にいた頃、向けられる度に心が安らいだ、あの慈愛に満ちた笑みを。
「ああ……」劉備は目を伏せた。涙が一筋こぼれ落ちた。
「僕は許されるんだろうか。今度こそ、自分の願いを……君を……求めてもいいんだろうか」
「ええ……」
関羽に顔を両手で挟まれる。その手に、劉備は手を重ねた。
ずっと無力な僕を守ってくれていた小さな手の熱が、心に染み渡る。
「ああ……僕はどうして今まで気が付かなかったんだろう……。こんなにも周りから助けられていたのに。ずっと嫌わないで見守ってくれていた人がいたのに。いつも自分のことばかりで……手が届かないと決めつけていたのは僕自身だったんだ……」
ありがとう。関羽。
ありがとう。みんな。
ありがとう。興覇。
「僕は……これからも君たちと生きていきたい」
関羽を、張飛達を、興覇を見る。
幽谷を見たけれど、彼女はもう笑みを消していた。
劉備は、深呼吸を一つ。
「そのために、戦うよ」
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